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不安や怒りとの付き合い方


不安や怒りを消すことを目的とした自己啓発書は多い。そもそもなぜ人間には不安や怒りを感じるようにできているのだろう?不安も怒りも万物の創造主によるエラーではなく、自分の身を守るために搭載された機能だ。それを消そうという視点だけの自己啓発書は、「むかつく人には変なあだ名を付けよう」とか、薄っぺらい対処を集めただけで終わってしまう傾向にある。そんな傾向はさておき、上記に挙げた本はいずれも不安や怒りに対して深く考察された良書である。

不安や怒り自体が問題なのではない。それが行き過ぎたときが問題なのである。ここで言う行き過ぎとは、不安や怒りによって平常心を失って成功を逃してしまったり、びびって行動範囲が狭くなってしまったり、学習意欲を失ってしまったり、心身を病んでしまったりということだ。

行き過ぎないためには、事実を「程よく」理解することが大切だ。よく、「事実をありのままに理解する」と言うが、そもそも人間は、目の当たりにした出来事を自分自身というフィルターを通して理解するため、「ありのままに理解する」のは不可能だ。大事なのは、自分にとって「程よく」理解する姿勢だ。暴力的なニュースを見て「何という物騒な世の中になったんだ」「気を付けなければいけないぞ」と大きく評価する人もいれば、「まぁ自分には関係ないや」と、小さく評価する人もいる。両者の違いは、不安や怒りを感じるネタ(事実)に対する「捉え方」の違いなのである。本来1とか2に過ぎない不安や怒りに対して、自分自身の捉え方によって×3とか×4とか掛け算をし、不安や怒りが増幅して心身を患ってしまったり、やりたいことができなくなってしまう。その掛け算幅を調整できることが大事なのである。

ではそのためにはどうしたら良いのか。事実を過大に捉えてしまう人には、実はある程度のパターンがある。このパターンに陥っていないかをチェックしよう。
①些細な点へのこだわりが、全体への評価を歪めている
・一部の失敗にすぎないのに「全体の失敗である」と捉える
・特殊な例にすぎないのに、「いつも~(よくない)」「やっぱり~(よくない)」
②よい出来事を評価することを忘れている
・「まぐれだ、これで運を使った、喜べるほどのことではない」
③「自動読心術」が作動して、周りの人が信じられなくなっている
・「自分がやらかした一部始終をこの人も知っていて、内心軽蔑しているんだろう」
④未来を先読みしている
・「~ということがあった以上、・・・という事態になるはずだ」

事実を過大に捉えるパターンに陥っていることに気付いたら、その捉え方を上書きしよう。

①「部分⇒全体」の癖が出て「いつも~(よくない結果)」「やっぱり~(よくない結果)」と感じたら、
「~(よくない結果)ということもある」に変換する。
⇒良い所を見つけて、「意外と(よい結果)かもしれない」に変換する。

②よい出来事を評価する習慣が無いならば、
⇒1分でもいい、1行でもいいので、日記を書こう。一日やったことを振り返り、出来たこと、誇れることををさがして、大いに自分を褒めよう。

③読心術の癖が出て、人が信じられなくなってきたら
⇒自我を守る適切な壁が必要なので、「鉄壁!」と唱えて、「ブゥ…ン!」という効果音とともに自分の周囲半径30cmに、他人の評価を寄せ付けない結界が張られたことをイメージする。
⇒その上で、自己イメージを上書きする接頭語「意外と」を付けて、自分を評価し直す。「意外と〇〇はできていたぞ」

④先読み癖が出てモヤモヤしてる自分に気付いたら
⇒「明日は明日の風が吹く」と唱えて、「ブゥ…ン!」という効果音とともに「明日は明日の風が吹く」と書かれたボールを(イメージの中で)召喚し、それを自分の体の中に取り込む。

荘子も、「不測に立ちて無有に遊ぶ」、つまり、「今日「有」であるものが、明日は「無」かもしれない。そんな先の読めない現実に立って、楽しもう」と言っている。先行きを考えるのは、「遊び」程度で良いのである。

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