解釈違いの原因を言語ゲームから探る【国士舘アニ研ブログ】

こんにちは。鯖主です。

突然ですが皆様は「解釈違い」を感じたことがあるでしょうか。文字通り自分の持つキャラクター像や作品像などが他の人の持つそれと相違することであり、物語作品に触れ続ける中で多くの人が通る道だと思います。また、その理由として「みんな考え方とか感じ方が違うから」みたいなことはよく言われていますし、私も同意します。そして恐らくは当たっているのでしょう。
しかし、考え方や感じ方の違いが起きる原因についてはどうでしょうか。要は解釈違いの原因(=考え方や感じ方の違い)の原因について語れるかどうか、という話です。私は「少なくとも感じ方の違いについては原因を探すことが可能ではないだろうか」と考えています。
ということで本稿では解釈違いの原因のひとつである「感じ方の違い」が起こる原因について考えてみます。


・「解釈違い」を定義する

さて、まずは「解釈違い」の「解釈」について定義しましょう。とりあえず解釈の辞書的な意味を調べてみます。

かいしゃく【解釈】
文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、その理解したところを説明すること。その内容。

Oxford Languages「解釈」より

本稿では基本的に前半部分の「文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。」という意味で解釈という言葉を扱っていきます。
ここで重要になるのが「受け手の側から理解すること」という部分です。

では、その「受け手の側から理解すること」という行為の中で何が行われているのでしょうか。私は「対象となる物事を記号化している」のではないかと考えます。
記号化とは簡単に言えば「物事を枠に当てはめること」です。こう言うと何だか自分勝手な行為に聞こえてくるかもしれませんが、言いようによっては「私たちは日常的に記号化をしている」とも言えます。
例えば私たちは壁と扉の区別がつきます。何故でしょう。それは私たちがその壁と扉を知覚すると同時に、壁と扉を記号化しているからです。先述した通り記号化とは「物事を枠に当てはめること」です。この例の場合、壁と扉を知覚したタイミングで「ここからここは壁だ」「ここからここは扉だ」と無意識的にそれぞれ「壁という枠組み」「扉という枠組み」に当てはめているのです。
逆にこの場面で記号化ができない場合はどうでしょう。すなわち、壁と扉が区別できない場合です。扉を扉として認識できないのですから、恐らく偶然を待たない限りその扉が開くことはないでしょう。
こういったことから言いようによっては「私たちは日常的に記号化をしている」とも言えるのです。

この記号化という行為を解釈の話へ落とし込んでみましょう。
すごく極端な例になりますが、アニメを観ていて「別にアンタのことなんか好きじゃないんだからね!」なんてセリフが出てきた際に、そのセリフを言ったキャラクターを「ツンデレキャラ」という枠に当てはめてしまう行為は記号化であるといえるでしょう。
私たちが何かを認知する場合は先述したように記号化がセットで付いており、それは物語作品を消費する場合も例外ではないのです。

ここまでの話から解釈の定義をまとめます。
「解釈とは文章や物事の意味を受け手の側から理解することであり、また受け手の側から理解するという行為の中で対象となる物事を記号化することである。」
これで解釈の定義は大丈夫でしょう。

続いては解釈違いの定義について考えてみましょう。先述したように本稿では「感じ方の違い」を原因とする解釈違いについて考えているので、「感じ方の違いを原因とする解釈違い」の定義となる点にご注意下さい。とは言っても解釈の定義がまとまっているのですぐに済みます。
上述した解釈の定義から言葉を借りて「解釈違いとは物事を記号化することで受け手の側から理解された文章や物事の意味が他の人のそれと異なることである。」と定義しましょう。
これで解釈違いの定義もOK。

・「言語ゲーム」ってなんだろう

ここからは本題である解釈違いの原因について考えます。
ここで用いるのがタイトルにもある「言語ゲーム」という謎概念。

言語ゲーム(英語: language-game)とは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した言語活動をゲームとして比喩したもので、特に側から見ると意味不明なやりとりとなっているものを言う。

Wikipedia「言語ゲーム」より

どうやら「ゲーム」と言っても言語活動の比喩みたいです。
しかし、これだけだとほとんど何も分からない。

では、言語ゲームとはなにか。ひとことで定義すると、言語ゲーム:規則(ルール)に従った人びとのふるまいである。

橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書 2009)

やっぱりよく分からない。
実際、引用元の文章でも引用部分に続けて「これだけでは、わかりにくいかもしれない。」と書かれていたり……。
とりあえずは「言語ゲームとは規則(ルール)に従った人びとのふるまいである」という定義を頭に入れて読み進めていただければと思います。

では、例によって具体例を挙げてみましょう。実は先程引用した『はじめての言語ゲーム』での説明と大体同じようなものになるのですが多分大丈夫でしょう。許してー。
扉というものが分からない人がいます。仮にAとしましょう。扉というものが分かっている誰かがAの前にいくつもの無作為に選んだ扉を持ってきます(大変そう)。それらの扉をいくつか見ていくうちに扉というものが分からなかったAは突然「分かった」と言います。Aは今後、この場で見た扉とは違う扉を見てもそれが扉であると分かるでしょう。
この、ごく少数の扉からありとあらゆる「扉」と呼ばれるものについて理解すること、これが規則(ルール)を理解するということです。
そして、言語ゲームとはこのような経験から理解を得た多くの規則、あるいはルールを基にして行われる人々の振る舞い、すなわち言語活動のことを言います。つまり、私たちはこういった規則を基盤として生活をしているのです。

では、扉を理解する前のAと理解した後のAでは何が違うのでしょうか?
この疑問の答えは先程の「壁と扉の区別の話」にあります。扉を理解する前のAは「扉という枠組み」が存在しなかったのに対し、扉を理解した後のAは「扉という枠組み」が存在すると言える、という訳です。
そして、先述したように記号化とは「物事を枠に当てはめること」です。
これらのことから、規則を理解するということは新しく物事を当てはめる枠を作ることであると言えるのではないでしょうか。

・解釈違いの根本的な原因を探る

さて、これでようやく解釈違いの原因について話せる段階まで来ました。ここからは解釈違いの原因、その原因の原因……と続けて一番根っこの部分にある原因を探ります。

おさらいになりますが本稿では解釈違いを「解釈違いとは物事を記号化することで受け手の側から理解された文章や物事の意味が他の人のそれと異なることである。」としました。
このことから解釈違いの原因に当たる部分を「物事を記号化することで受け手の側から理解された文章や物事の意味」の違いであると定義できます。さらに言えば「受け手の側から理解された文章や物事の意味」というのは「物事を記号化すること」に由来するものであるため、解釈違いの原因は記号化のズレであると言えるでしょう。

では、このような記号化のズレは何に由来するものでしょうか。
記号化とは「物事を枠に当てはめること」でした。また、規則を理解することは新しく物事を当てはめる枠を作ることである、とも書きました。このことから記号化することは規則を理解することから始まると言えるでしょう。であれば記号化のズレの原因というのは規則の理解のズレであるとも言えます。

原因の原因探りが続きますがそろそろ終わりです。と言うのも、次に考える規則の理解のズレというのはそれより先に原因が説明できないのです。
考えてみて欲しいのですが「あなたは何故、扉というものを理解しているのですか?」と質問されても「何故かは分からないけど今までの経験からなんか理解している。」くらいの答えしか出ないと思います。
なので規則の理解はそれより先の理由が説明できないのです。

ということで解釈違いの根本的な原因は規則の理解のズレであると結論が出ました。
抽象的な結論なので具体例を出してみると、「別にアンタのことなんか好きじゃないんだからね!」というセリフからそのキャラクターを「ツンデレキャラ」という枠に入れられるのはそういう規則が備わっているからであり、そういう規則が備わっていない、あるいは「別にアンタのことなんか好きじゃないんだからね!」というセリフに対しての別の規則が備わっている人とは規則のズレがあり、その規則のズレの原因こそが規則の理解のズレであるということです。

そして、これは言い換えれば言語ゲームの失敗であるとも言えます。要するに言語活動≒言語を用いたコミュニケーションが上手くいかない場合と同じことです。そして言語を用いたコミュニケーションが上手くいかない場合、というのは言葉を使って生活している限り起きて当然のことでしょう。
「解釈違い」と言うと、どうもマイナスな印象を持っている人を多く見かけますが、このように解釈違いは起きて当然なことなので私は「そこまでマイナスに思わなくても良いんじゃないかな」と常々考えるのです。

という事で解釈違いの原因について考えるという試みでした。

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