等身大な君たちへ/セカイ系→日常系からみる中二病の行く末【国士舘アニ研ブログ】

(この文章はコミックマーケット103にて頒布した部誌である「Cultures Vol.2」にて掲載したものに一部修正・加筆を加えたものになります。)


執筆者:鯖主

前章

「爆ぜろリアル!弾けろシナプス!
バニッシュメント・ディス・ワールド!」

『中二病でも恋がしたい!』より

・はじめに

キャラ属性についての話というのは物語のキャラクターの話、転じて創作物の話に留まることが多いでしょう。しかし、虚構止まりの話ではなんだか悔しいので、中二病というキャラ属性を用いることでキャラ属性というものを現実に向けてみようと思います。そんな試みです。

・中二病の再確認

さて、いきなり中二病と言ってもそれなり以上には定義不明瞭な言葉なので、まずは中二病というものについて再確認してみましょう。それなりにネット用語の側面が強いため、「ニコニコ大百科」から引用させていただきます。

中二病(ちゅうにびょう)は、中学2年生(14歳前後)で発症することが多い思春期特有の思想・行動・価値観が過剰に発現した病態である。
多くは年齢を重ねることで自然治癒するが、稀に慢性化・重篤化し、社会生活を営む上で障害となることがある。特異的な身体症状や臨床所見は見出されていない。
(中略)
「中二病」は以上のように、元々は「中二ぐらいの思春期の頃の背伸びした行動」という意味が原義であったが、概念が流行した末に広く言葉が乱用されてしまった結果、現在では単なる蔑称としての意味合いが強くなっている。特に創作物の評価においては「身の丈に合わない壮大すぎる設定や仰々しすぎる世界観を持った作品」が対象となり、次第に転じて「非現実的・特殊な世界観や設定そのもの」を揶揄・否定するための言葉として使われるようになっている。

ニコニコ大百科「中二病」 より

ご存知の通り、いわゆる「イタいヤツ」の典型みたいな状態のことを指す単語です。個人的には「努力や能力無きアイデンティティーの獲得行為」という表現が特にしっくりきます(ピクシブ百科事典「中二病」より)。
該当するキャラクターもいくつか挙げてみましょう。まずは、『中二病でも恋がしたい!』より小鳥遊六花を挙げます。本稿の冒頭にて引用したセリフも彼女のセリフでしたね。自称「邪王真眼の使い手」の女子高生です。中二病ファッションとして眼帯やゴシック調に改造された服を身に付けています。作中でも中二病患者として扱われており、中二病を擬人化したようなキャラクターです。
そして、中二病キャラといえばもう一人。『コードギアス』シリーズよりルルーシュ・ランペルージも挙げましょう。彼は小鳥遊六花のような中二病キャラとは異なり、言うなれば中二病を発症させる側の中二病キャラです。イタくない中二病キャラ、と言っても良いでしょうか。中二病的な言動をするものの、それが様になっているキャラクターであり、作中においても特に中二病患者であるようには扱われていません。もちろん、中二病キャラ的な振る舞いはしていますが。
このように中二病キャラというのは、中二病を患っているタイプ(中二病患者)と、中二病を誘発するタイプのふたつに分けられます。本稿では前者を「受動的中二病キャラ」、後者を「能動的中二病キャラ」とします。そして、本稿で扱うのは中二病を患っているタイプである受動的中二病キャラです。恐らく、世間的に中二病キャラと呼ばれるキャラクターの多くもこちら側でしょう。

・受動的中二病キャラを掘り下げる

では、受動的中二病キャラと能動的中二病キャラでは具体的に何が違うのでしょうか。そんな比較を通して、受動的中二病キャラを掘り下げていこうと思います。
私は間違いなく挙げられる差異として、いわゆる「キャラ付け」の意図の有無があると考えています。受動的中二病キャラが明確にキャラ付けとして中二病を振る舞っているのに対して、能動的中二病キャラにはそのような意図が無い、という訳です。このことを説明するために、先述した「ニコニコ大百科」からの引用の続きとなる部分を引用させていただきます。

中二病考察
中二病自体はそんなに悪いわけではない。どこの国でもいつの時代でも存在する、大人になろうと背伸びをした結果の、若さゆえの過ちちょっぴり恥ずかしい行動にすぎない。その恥ずかしさは現実からの剥離っぷりにある。
外国文化やアイドルなど華やかな世界に憧れ、そうなろうとすること・自分もそうであると振る舞うこと自体は、現実世界での話であり、理想の自分の到達点として実現可能である為、そこまで恥ずかしくは無い。むしろそれによってより素晴らしい大人になれる可能性すらある。たとえば世界一のスポーツ選手やスターに憧れ、その振る舞いを真似ることで彼らに少しでも近づけたのなら、それは決して悪いことではないだろう。

ニコニコ大百科「中二病」 より

ここで注目したい点が「華やかな世界に憧れ、そうなろうとすること・自分もそうであると振る舞うこと」という部分。私は、これが中二病の根っこにあるものであると考えます。そのため、中二病を引き起こす感情は「憧れ」であり、それは変身願望にも近い、今と違う自分を夢見ることではないでしょうか。であるならば、能動的中二病キャラというのは「憧れ」の対象であると言えるでしょう。
では、受動的中二病キャラは能動的中二病キャラの何に憧れているのでしょうか。それは、能動的中二病キャラの「キャラクター」に憧れているのだと思います。先述した「努力や能力無きアイデンティティーの獲得行為」という言葉の通り、中二病というのは自己を確立するための行為の過程のひとつとされています。「思春期は周囲の影響を受けながら一人の大人として自分を確立する時期」と言われている通り、アイデンティティーの獲得行為自体は誰もが通る道でしょう。そして、アイデンティティーの獲得とは言ってしまえばある種のキャラ付けです。思春期はキャラ付けしたいお年頃なのです。だからこそ、能動的中二病キャラが持つ個性の強い「キャラクター」に憧れてしまうのでしょう。もちろん、この憧れの対象は何も能動的中二病キャラだけではないでしょう。それこそ本書で紹介されているようなキャラ属性たちは好例です。そういったキャラ属性は分かりやすい「キャラクター」でしょう。そんなキャラ付けがちょっとばかり分不相応な振る舞いになってしまうと中二病患者であるとされてしまうのだと思います。
ちょっと話が逸れましたが、このような理由から受動的中二病キャラはキャラ付けとして中二病を振る舞っていると考えるのです。こうしてみると「キャラ付けとして中二病を振る舞っている」というのも、なんだか同語反復的に聞こえますね。そもそも中二病がキャラ付けの行為なのですから。

・中二病キャラに向き合ってみよう

(これ以降は受動的中二病キャラの話しかしないので、受動的中二病キャラを「中二病キャラ」として話を進めます。)
中二病キャラというのは往々にして、作中で残念系キャラとして扱われます。実際、先程紹介した小鳥遊六花も公式から「とても残念な子」呼ばわりされています(『中二病でも恋がしたい!』公式ページより)。そんな……。
このように感情移入とか、そういったものからは程遠く、他人事のように消費されがちな中二病キャラですが、見方によっては最も私たち寄りのキャラ属性であると考えています。そんな話で前章を締めたいと思います。
物語に登場するキャラクターは個性が強いこと、もとい「キャラクター」が立つことがほとんどです(アイデンティティーの獲得をある種のキャラ付けと言ったことと同様に)。ゆえに、物語のキャラクターたちは何をせずとも「キャラクター」を持っています。しかし、中二病キャラだけは例外でしょう。そのような周りの「持つ者」とは対称的に、中二病キャラは「持たざる者」です。持ってないからこそ、仮初の「キャラクター」を身に付け、その結果として中二病キャラという「キャラクター」で精一杯生きているのです。これは現実の思春期の少年少女と同じではないでしょうか?「何者」かになるために、「何者」であるように見える「憧れ」を自身に投影する。まさに思春期だと思います。だから、「キャラクター」という虚構性が強いものの中でも、中二病キャラはすごく等身大なのです。「憧れること」と、「憧れを目指すこと」をだけを切り取れば思春期に限らずとも当てはまる人はそれなりにいるかもしれません。
このように中二病キャラは案外身近で、ずっと等身大であるように思えるのです。物語を消費する中で、ふと気が向いた時にでも、中二病キャラと向き合って、ほんの少しでも寄り添って、そしてちょっとでも共感してもらうことができたのなら、この文章の書き手として嬉しい限りです。


後章

▼セカイ系→日常系→中二病

日常系は時としてポストセカイ系ジャンルとして語られることがあります。それは、かなり端折って言えば、セカイ系の閉塞的な側面(例えば小さい関係性・小さいコミュニティの内側だけで完結する物語や描かれない社会)を日常系が引き継いでいるという見方です。例えば日常系に分類される作品では、『けいおん!』や『生徒会の一存』のような部活やそれに類するコミュニティの中で物語が進行する作品(小さい関係性・小さいコミュニティの内側だけで完結する物語)が多いでしょうし、またキャラクターたちの卒業後までをきっちりと描く作品はほぼ存在しないでしょう(描かれない社会)。(*1) 逆にセカイ系から日常系へ引き継がれなかったものとして様々な理不尽があり、特に生を脅かす理不尽は徹底的に排除されている傾向にあります。そのため、日常系の作品は閉塞的で楽園的な箱庭のような世界観(セカイ観)であるとされることが多々あります。(*2)
それでも、この「閉塞的で楽園的な箱庭」は物語の進行とともに少しずつ終わりへと近付いて行きます。多くの作品の場合、この箱庭セカイは卒業によって終わってしまいます。
このような日常系の捉え方をした時、中二病は日常系と近い性質を持っているように思えます。前章で書いたように中二病は憧れの振る舞いです。そして、その本人からすれば振る舞っているその時は、憧れに届いているのでしょう。このように中二病も日常系同様に内向的≒閉塞的であって、そこに現実≒社会は反映されていないと考えます。また、日常系作品の箱庭セカイが卒業によって崩れるように、中二病も現実と向き合うことで、向き合わされることによって治療されてしまいます。そんな訳で中二病は日常系と近い性質を持っていると考えるのです。


1:しかし、最近はこの傾向が薄れてきており、例えばバンドを扱った日常系アニメである『けいおん!』(2009)と『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022)を比べてみても、前者が閉塞的・ご都合主義的(練習シーンの少なさや値引きギター購入のシーンなど)であるのに対して、後者は『けいおん!』ほど閉塞的ではなく現実的(SNSの扱われ方やバイトなどの金銭事情の描写など)な傾向にあるとされています。

2:このような日常系とは別のアプローチで日常を描いた、あるいは脅かされない日常に対して懐疑的であるような作品が10年代から増えたこともまた事実で、『結城友奈は勇者である』や『がっこうぐらし!』のような新日常系と呼ばれるようなジャンルがそれにあたるでしょう。本項では新日常系は日常系とは別ジャンルとして扱っていきます。


・日常系→中二病→モラトリアム

さて、先述したように大半の日常系作品では箱庭セカイの最期までが描かれることはありません。その先にあるのは今まで徹底的に排除されてきた様々な理不尽がある世界ですから、恐らく日常系らしい日常系作品を求める消費者の大半は、こんなものを求めてはいないでしょう。したがって、描かれにくいのは当たり前であると感じます。
しかし、現実はそうはいきません。いつかは中二病を卒業して、現実を見なければなりません。もはや、これは中二病に限った話でもないでしょう。ほとんどの人は箱庭セカイ(モラトリアム)を卒業して世界(社会)へと歩き出さなければならないのですから。これは困りました。でも、少なくとも、日常系のキャラクター達はそんな未来を抱えた中でもキラキラしています。恐らく日常系の魅力のひとつは、こういうった不可逆的な一瞬の輝きにあるのでしょうね。だからこそ鑑賞物的にも見える箱庭舞台が日常系には似合うのでしょうか。

・「行って帰る」日常系

少し話が逸れましたが、日常系に現実の見方を尋ねるのは少し無理がありそうです。だからこそ出てきたと思っているのが「行って帰る」物語に日常系の要素を組み込んだ作品たちです。その多くは先程挙げた新日常系とされるジャンルの中に含まれるでしょう。なので厳密には日常系ではないような気がしますが悪しからず。さて、「行って帰る」と言うと、『千と千尋の神隠し』に代表されるような、どこか(向こう側の世界・「油屋」)へ行って、ここ(現実世界)へ帰って来る、その過程で主人公が成長したりする作品構造です。が、この「行って帰る」日常系は一般的な「行って帰る」物語と形が異なっていて、一般的なものがUターンの形(ここ→向こう→ここ)であるのに対して、「行って帰る」日常系はIターン(箱庭セカイ→世界・社会)の形になっています。Iターンなのに「行って帰る」とはこれ如何に、という感じですが、どちらも言っていることは同じであると考えています。「行って帰る」物語の肝はその過程での成長だと思いますし、それはIターンでも変わらないでしょう。あとは私が『リトルバスターズ!』に引っ張られているという点も大きいです。

(以下、若干のネタバレ注意)

『リトルバスターズ!』は、すごく簡潔に言ってしまえば「逃避先、あるいは一時的な安地=箱庭セカイで日常系みたいなことをする」作品であり、その結末は現実を向いています。「行って帰る」日常系とは要するに、日常を描きつつ日常系的モラトリアムを糧に現実へ踏み出そう、みたいな物語を描く作品を指します。これこそ箱庭セカイが崩壊した後を生きる上で大切な態度なのではないでしょうか。中二病の行く末は絶望するほど暗くはなさそうです。
そして、このことは自分事としても捉えられるような気がします。そもそも私が大学生なのでモラトリアム云々の話が自身に当てはめられてしまうのはもちろん、「虚構を糧に現実を生きる」というのは物語の消費の基本でしょう。

・読まなくても良い補足・予防線

ここまで、二つの側面から中二病を現実に向けてみた訳ですが、元も子もないことを言うと中二病を現実に向けること自体がナンセンスという視点もあったりします。それは前述したような、日常系やそれに近い性質をもつ中二病というものは箱庭的であって、そこに現実を持ち込むことはご法度だ、という視点です。新日常系と日常系の関係に似ているような気がしますね。


・加筆パート

ここからは、noteで投稿するにあたって加筆した部分となります。「行って帰る」物語とか箱庭云々みたいな話がありましたが、それらについての補足・加筆となります。
さて、本文において「箱庭」と形容していたものの代表的なものとして「学校の屋上」があります(詳細は下記noteを)。

それは、学校の屋上が持つ「学校にある関係者以外立ち入り禁止の場所」という特徴が表しているようなモラトリアム性に由来するもので、したがって学校の屋上もまた箱庭的・ユートピア的であると考えています。学校の屋上は関係者を受け入れてくれる「箱庭」ですが、関係者はいつまでも関係者ではいられません。最も代表的な例としては卒業がありますね。このような「いつかは箱庭から飛び立たなければならない」、転じて「いつかは現実に生きなければならない」みたいな文脈の作品は沢山ありますが、本文ではこれをIターンの「行って帰る」物語としていました。それを中二病に置き換えて話をまとめてみた、という感じです。
ということで、「行って帰る」物語と「箱庭」についての補足・加筆でした。

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