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記録_20210207

心が真っ暗になっては、下を向き、しばらくやり過ごして、なんとか元に戻る。それのくり返し。とうとう我慢できずに、甘いものを買い求めた。100円ローソンで、チーズプリン2つと、グリコを買った。1分もしないうちに全て平らげた。本当はチーズケーキとクッキーがよかったけれど、なんとか堪えたところで、この選択になった。本当はなかったことにしたいけど罪滅ぼしのために書くと、賞味期限の切れた無印良品のカレーと白米もたベてしまった。

もう自暴自棄になっている。減量生活を始めて、今はかなり辛くなっている。自分が食べ物に囚われていることを知る。あれもこれも食べたいという気持ちが日に日に肥大しているような感覚である。

下を向くことばかりだ。やることや考えなければいけないことが次から次へとやってくる。それでも私は、力を抜いてやることの大事さを、まだ知っているはずだ。今日はただの微小な運動である。明日も、明後日も、それは変わらない。

河原温の国際的展覧会に即して制作されたガイドブックをかりてきた。彼は愛知県出身ということもあるのか、いくつかの資料が所蔵されていた。

細野晴臣のコメントを引用する。

「人は無限大の重力に引っ張られて、落下しているのだ。今や、その加速度は最高潮である。あまりの早さにひとときを感知できない。だから、今を記録することは快感である」

私はこのnoteシリーズを「記録」と呼んでいる。初めは、起きた出来事を淡々と記述するスタイルであったが、長く続かなかった。よりパーソナルな部分であっても、それは「記録」であることは正しいと思い、このような形で途切れながらも続けている。

(もちろん河原温が日付を書くのと、私が「記録」を書くのは全く異なる作業だろう。デジタルとアナログという媒体の違いよりも、姿勢や目的の部分で大きく異なっている。)

しかし、細野晴臣が言うことを拡大解釈するのならば、私が続ける「記録」は、実は快感を伴う行為なのではないか。正直なところ、私はこの「記録」をどこか面倒なものとして、でも継続しなければいけないという心の不安のために続けている。だが、細野が言うことが正しいのならば(正しくないとしても)今を切り取る何らかの手段である「記録」は、重く重く、無限に見えて有限な”時間”と対峙した際に、途方もないくらいの快楽を伴う行為なのではないだろうか。

「限られた時間の中で 借り物の時間の中で 本物の夢を見るんだ」

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