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| 追憶のAKB48 | ノスタルジー,賢い大人たち,絶妙なダサさ

緩やかに、時間と空間の中に

  時が緩やかに戻る。今のわたしはとても前田敦子さんが好きで、短いスカートに、濃いアイラインに、つけまつげに憧れている。あの頃のAKBの映像を気づいたら2時間も見ていた。 不思議な気持ちにもなる。あの頃のAKBの映像ー2010年前後の”AKB48黄金期”のものーは、今の自分とは時間的/空間的にあまりにも、かけ離れている。だけれども、あの頃のAKBを、あの頃の自分はリアルタイムで観ていたはずだ。好きでも嫌いでもなかったけれど、常識のように「神7」や「ヘビーローテーション」などは知っていた。知らないことができなかった、と言ってもいいくらい、AKBは当たり前の存在だった。 だから、この映像を、私は知っているはずだ。この曲も、私は知っているはずだ。だけども、歴史上の出来事のように、時間と空間は流れ、遠のき、取り戻せなくなってしまっている。そのことを噛み締めながら、私は緩やかに戻る時に身を浸している。

AKB48というプロジェクト

  そんなノスタルジーとは裏腹に、新しい気持ちでAKBを観ている/聴いている自分もいる。アイドルとしての彼女たちはよく知っていても、アーティストとしてのAKB48という”プロジェクト”については、わかるはずもなかった。彼女たちは、賢い大人たちによって戦略立てられた細かな計算の中、一生懸命に生き抜いていた。AKB48は、フロントに立つ彼女たちだけのものではない。秋元康をはじめとする多くの大人たちが、仕掛けたプロジェクトなのだ。そのことは、ドキュメンタリー映画作品を観るとよくわかる。彼女たちは最初からコントロールされ、演劇的な空間に放り込まれた。それなのに、汗や努力は本物と認められ、演技と現実の狭間で、大人にいいように使われていく。そんな矛盾したAKB48というプロジェクトは、矛盾しているからこそ、世を席巻したのだろう。今となっては、そんな流行すら仕組まれたものに思えてくる。 

ダサさに震え上がって、心をときめかす。

    AKB48というプロジェクトは、アイドルとしての身体を持つ彼女たちだけではなく、もう一つの重要な側面がある。それは、楽曲だ。誰もが歌えたような、大ヒットしたシングル作品がAKB48の全てではない。彼女たちは秋葉原に劇場を持っていたことから、多くの劇場公演曲が存在している。spotifyなどの配信サービスではほぼ全ての楽曲が公開されているため、私は本来の聴き方(公演でパフォーマンスとともに観る)を無視し、楽曲だけで聴いている。何曲かとても驚くものがある。「恋愛禁止条例」公演の『109(マルキュー)』は、驚きを超えて恐ろしさを感じたりもする。

 イントロから、頭の中で「?」と「!」マークが交互に出現する。この、なんとも古めかしい演歌調のメロディはなんだろう。そんな古臭さのあるメロディと微妙に合うような歌詞、「愛はまるで道に迷ったエトランゼ」ー。サビの、「気づいたら、マルキュー」、コブシを聴かせて歌ったら、本当に演歌になりそうだ。シンセサイザーのストリングスが、カラオケのようなチープさを思い起こさせる。

 全体的に、ものすごいダサい。注意、私は貶しているのではなくて、褒めている。(ダサいは褒め言葉!)こんなダサい曲ー演歌のようなメロディ、安っぽい作り、ベタベタな歌詞ーは、絶対に、計算されて創られている。AKB48の楽曲全てがこうだったら計算ではなく特徴と言えるのかもしれないけれど、絶妙なダサさのある曲が、「109(マルキュー)」の他にも、数曲だけ存在するのだ。

 そうなってくると、私はこう思う。このダサさは、秋元康(=賢い大人たち)の戦略だな、と。このダサさは、何周も回って、クールにも思えてくるのが、また不思議なところだ。ダサさに震え上がって、心をときめかす。

  AKB48というプロジェクトは、今となっては過去の事象になり、歴史となり、自分を顧みるツールになってしまった。それでも彼女たちの身体の証は、映像の中に、音楽の中に刻まれてもいる。そして、その証、いや、垢のようなものを、2021年の私は全く新しい視点で楽しんでもいるのだった。時は緩やかに戻れば、更新もされていく。もちろん、AKB48は現在進行形でもある。だけども、そのAKB48は、あのAKB48とは全く別物に見えてしまうのだ。この問題については、後日、ゆっくり考えていきたい。


補足:絶妙なダサい曲紹介 

 ダサいことは、完全に褒め言葉である。ダサいは「カッコいい」であるし、「カワイイ」でもある。ここでのダサさは、完全に「狙ったもの」である。それも、賢い大人が、狙ったものである。だから、彼女たちの身体は、ある意味、ダサさに”汚染”はされていない。彼女たちの身体は、ダサさと混じり合うことはない。楽曲だけ浮き立って、ダサさの世界を展開している。この不釣り合いな感覚が、AKB48の楽曲をより面白くしているのだろう。愛を込めて、ダサさに心を震わせ、ときめかす。

   『てもでもの涙』ー「パジャマドライブ」公演より

イントロ勝負みたいなところがある。泣きのメロディ、意味不明なタイトルが、賢い大人たちの世代を感じます。ファンの間では、かなり人気曲なのが面白い。

『君はペガサス』ー「脳内パラダイス」公演より 

聴き方によってはカッコよくも思えるけど、なぜかダサい。多分、伴奏の音が多いのが原因かもしれない。サビがコーラスになるのも(グループだからしゃーないが、)ダサい原因かも。 

『涙売りの少女」ー「誰かのために」公演より 

これは、ハイエナジーの名曲、Limeの”Unexpected Lovers”のカバーと言ってもいいくらい似ている。秋元康先生は、結局はこの時代の人なんだなと思う。

『毒蜘蛛』ー「RESET」公演より 

これも、ハイエナジー、ディスコ風。音の選びがダサい。ちなみにパフォーマンスでの衣装も、かなりダサい、みんなどんな気持ちで踊ってたんだろ。

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