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[イメージフォーラムフェスティバル2020]ペーター・チェルカススキーへのラブレター

イメージフォーラムフェスティバル2020にて観賞したペーター・チェルカススキーさん。疲れ切った体に、あまりにも危険な劇薬でした。

めちゃくちゃな気持ちが、自然と収まるような暴力性、カオス…心をさらに掻き乱し、さらに騒ぎ立て、そして自然と安心する。この不思議な感覚はなんだろう。わたしの心臓はいまも早く鼓動を打つ。とんでもないものに、出会ってしまったぞ…!!という赤信号。じっと立ち止まって、3つの角度から、ペーター・チェルカススキー作品を考えてみようと思います。

今回観賞した作品                          マニュフラクチャー 1985
ハッピー=エンド 1996
ショット=カウンター・ショット 1987
カミング・アトラクションズ 2010
完璧な身体 エクスクイジット・コーパス 2015
光と音のマシーンのためのインストラクション 2005
アウタースペース 1999

①反復

ほとんどの作品は一つのシークエンスといえるようなものは存在しておらず、一つの行動・動作の反復の繰り返しから成り立っている。反復。この行動はどう捉えたらいいのだろうか。

しばらくわからないでいたが、『完璧な身体』を観てやっと気づくことができた。反復すること。それはとても基本的な運動なのではないだろうか。もっとはっきりというのならば、セックスは反復運動だ。それから私たちは生まれてくるとしたら、反復することは人間の基本的な行動原理なのかも知れない。

『完璧な身体』はさまざまな女性の裸体を並べて反復させながら、同じく反復する存在である波の音を重ねていく。反復する身体は、フィルムのつなぎ合わせによって生み出されてものであるが、演者が同じ動きをしているかのようにすら思える。それくらいスムーズで違和感を感じない動き…慣れてしまったのかもしれない。

しかし、スクリーンから出た現実の私たちの行動は、反復しているといっても全く同じ動きを全く同じようにして繰り返すのではない。反復のなかで微妙な差異が生まれてくる。時間は一直線だ。

だが、チェルカススキーの作品に出てくる身体は全く完璧なように繰り返している。その意味でこれらの作品はリアリズムを逸脱しているだろう。それでもわたしは、スクリーン上で反復する身体をとても愛らしく感じていた。それはきっと、反復行動や繰り返しがあまりにも日常的な行動であるからだろう。

②素材 

素材を感じる。フィルムを感じる。それはとても懐かしい感覚だ。まるで図工の授業のような光景だ。版画を擦ったときの感激に近いような気がし、浮きだっているイメージに触れられそうな気がした。

それはフィルムが間違いなく存在しているという一種の主張のようにも思えた。映画…いや、映像はとても物質的なものであると。どうしても忘れてしまうこの決定的な事実を、チェルカススキーは伝える。映像と映像がオーバーラップし、途切れ、繰り返し、速度を速め、点滅へと変わっていく…ここに私は強烈な物質性を感じたのだった。

切り貼りして新しい文脈をつくるというコラージュの手法とは全く異なる。チェルカススキーの作品たちに用いられたオリジナルの作品は意味を喪失し、ただの”フィルム”という素材が主人公に仕立てられるのだった。”フィルム”はチェルカススキーによって暴れまわる。今まで向けられていなかった観客の視線を猛烈に集める。ここぞとばかりに。

③光と闇、そして洪水

 『アウタースペース』で溢れた光と闇は、フラッシュとなって暗闇を埋め尽くす。その奇跡のような時間に、わたしはただ涙が出てしまった。かつてこのような経験をしたことがあっただろうか?交差する光と闇に、わたしの身体は溶けていく。

そして同時に、息の詰まるような気持ちにもなってしまった。なぜなら、溢れすぎていたからだ。それはあまりにもたっぷりと、長時間をかけて、光と闇がブラックボックスを占拠する。思わず目をつぶってしまいたいと思ったが、どうしても見なければならないと使命感に駆られた。わたしは最後まで目を見開き、光と闇の洪水に向き合ってしまったのだ。このような経験は滅多にできないだろう。

3分間の短い作品『マニュフラクチャー』は映像の洪水であった。次から次へと反復を繰り返しながらイメージが増殖していく。とめどなく展開し続けるイメージにわたしは飲み込まれていった。そしてやはり、ここでも涙を流してしまったのだ。自分が壊れていくような、自分の境界がブチブチに切られていくような感覚に、涙を流した。それは、本当の意味の、涙だったと思う。


以上、3つの点からペーター・チェルカススキーについて感じるままに書いてみました。この7作品は映画…映像というものの物質性を感じさせつつも、物質の躍動感、生命力といったものも同時に感じるという、矛盾にあふれたものであった。

そしてなによりも、不完全な映像の洪水にわたしも飲み込まれていくような、経験・体験をせざるを得なかった。完全に受動的に、頭を使う暇もなく、わたしはそのまま飲み込まれていく。いや、スクリーンがわたしに近づき、わたしを飲み込むのだった。なんという経験だったのだろう。暗闇に溢れる逃げ場のない洪水に、わたしは今でも取り憑かれている。



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