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外面の月と内面の月、月も2つあるということ!

昨日、今日と、月の奥深さ、月の持つ役割について考えていました。

僕が西洋占星術の本を最初に読んだのは30年くらい前のことでした。その時、計算して、表を見て、コンパスで円を描き、初めて手書きで自分のホロスコープを作った時には、何かとても深遠なところに足を踏み入れたような気持ちになったものでした。

しかし、その当時の占星術の表現には違和感もあって、そこまでのめり込むことはなかったのです。

しかし、2020年から再び占星術の本を読み始め、30年前とはずいぶんと雰囲気が変わっていることを感じました。ホロスコープも簡単に出せるようになっていたこともあって、夢中で何冊もの本を読みました。今の占星術を吸収したいと思ったのです。

しかし、既存本では足りないという感覚が強く生まれました。どうしても足りないところを埋めたいという思いでいた時に、ミカミポーラさんの存在を知り、他の方にはない深みを感じ、その講座を学ぶことを選びました。

学んでみてたしかに、知りたかった仕組みを知ることができました。特にハウスルーラーの流れを追いかけることで見えてくる力の流動を見る方法論は他に類を見ない奥深さがあり、僕の選択は間違いではないということを思いました。

しかしそれでも、正直なことを言うと、まだ足りない感があります。根本的なところが足りないという感じです。

昨年、僕はこのノートの中で何度か、マドモアゼル愛さんの「月欠損理論」についての自論を書きました。僕の中に確信としてある月のイメージと、彼のいう月のイメージの間に大きな違いがあったからです。

たぶん、彼もそのことにはどこかではわかっているのだろうと思います。そのことは最後の月欠損に関する4番目の記事で触れました。

しかし、あらためてこのことを掘り下げてみると、こう言ったことの根っこにあるのは、西洋占星術で語られている天体の年齢域に関する見解があるのかもしれません。

月は0〜7歳という見方は、ある一側面においては使えるところがありますが、そこを絶対と見てしまうと、月は7歳児程度までしか成長できないというような間違った考え方をしてしまう人が出てくるということにもつながるのだと思います。

このあたりのこと、半年くらい前にはまだ自分の中ではっきりとした言葉にできなかったのですが、ここにきてようやく月が存在することの意味を腑に落とすことができてきたように思います。

それにはやはりヌーソロジーからの示唆が大きいです。たとえばこのような半田さんの記事があります。

この中で、「地球がS、月がaだね。月は自らの自転と公転を等化しているということ。つまり、エス(無意識の主体)を知っている。」と書かれています。

月というものは、人間が見失ってしまった霊性を思い出させ、物質意識という水の中に埋没してしまった人間を、本来の位置に復活させるべく、押し上げるべく存在しているのです。

月の役割はそういう意味でもとても大事なものなのですね。

生命の樹では、地球はマルクトであり、Ω1。月はイエソドであり、Ω2です。その上にはΩ5の太陽があります。


この正中線を垂直に昇る道筋の通り道であり、狭き門でもあるのが、この月という存在なのだということを忘れてはいけないと思います。

月は7歳児程度までしか成長できないという見方は、たしかに物質意識に落ちてしまったものにとっては、正しいのかもしれません。月をエポケーして成功を目指そうというのは、ある意味、成功するためには必要な道筋に見えるかもしれません。しかしそれでは何かが足りないはずです。

ヌーソロジーがいうように、月の存在の意味はもっと深いまのだと思います。

ここまできてようやく気づきましたが、月にも二つあるというのが答えなのかもしれませんね。それは外面で見る月と内面で見る月です。

外面で見る月は、ヌーソロジーがいうように、水の中(物質意識)に沈んだ人間を再び浮かび上がらせるための力です。

それに対して内面の月は水に沈んだままの未熟な欲求を抱える7歳児を表すのかもしれません。

人間の世界では付帯質が先行しますから、転倒した意識の表れというのが、7歳児の月であり、その状態のことをマドモアゼル愛さんは「欠損」と呼んだということが言えるでしょう。

しかし、本来の月、転倒していない月は、キリスト意識にも通じるということが言えるかもしれませんね。物質という水に沈んだ人類を再び浮上させる可能性を秘めているのですから。

さらに、こんな記事もありました。

この中で特に印象深いところ。

「ヌース理論の文脈に従えば、月は眠れる太陽である。つまり、潜在化における精神という言い方ができる。」

「地球と月とは、潜在化における客体と主体という対化関係を表すイデアと深い関係を持っているのだ。」

というようなことを書きながら、このような視点を盛り込んで占星術をさらに深く掘り進めたとしたならば、いわゆる現世利益的な占星術でなく、当て物的な占星術でもなく、もっともっと人間の存在を問うための占星術を見出すことができるのではないかと思います。

星が奥行きであり持続であるならば、それは自分自身の履歴であり、まさに存在論的存在としての自分の発見につながるのではないかと思います。

たぶん、僕がやりたいのはそういうことなんでしょうね。できるかどうかはわかりませんが、このような視点が持てた時点で、とてもワクワク感が出てきています。おもしろいものだと思いますね。

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