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フォーチュン、吊るされた男、星のパスワーク

じゅうぶんリフレッシュできたと感じたので、トートタロットの前に座りました。やりたいと思ったことはパスワークです。

どのカードに向き合うか、はっきりしなかったので、今このタイミングで見るべきことを教えてと言いながら、3枚並べました。

1.未来 ワンドのナイト
2.現在 星
3.過去 フォーチュン

フォーチュン

カードを並べた途端、フォーチュンを見たくなったので、じっとカードを眺めました。すると、まさにタイミングなんだよ、と言われた気がしました。ちょうどのタイミングで、今ここでこうしているということです。

そして、ふとバラナシの安宿で見た穴の中にも、この輪を見たはずだと思いました。

有象無象のものが、運命の車輪の循環の中で混ぜ合わされ、そこでは必要なことが起こってきたし、これからも起こっていくのだということ。

そこに稲光が走ることで、たくさんの化学反応が起こり、元素が固定され、それこそが僕自身の経験値として培われてきたものなのだと思いました。

だから避けようのないこともたくさんあるんだよね。雷に打たれるしかしょうがなかったのだとも言えるのでしょう。

しかし、それらのイベントは、すべて傷として、痣として、痛みとして残っているからこそ、今、お前はこのことの意味がわかるのだよ。と言われたような気がします。

車輪が回ることは、臼で穀物を粉に挽くことに似ているのです。そしてみなこの仕組みの中で粉に挽かれ、粉々になっていくのです。粉々になることで、新たな段階に入っていくとも言えるんでしょうね。

粉々になるということは、素粒子としての自分を見出すことでもあります。どんなに粉に挽かれても、いつまでも自分であることに気がつくようになると、素粒子と宇宙は同じものだと気がつくようになるのだと思います。

マクロとミクロをつなぐ、この宇宙の最も神秘であり、秘密であり、鍵を握っているのは、他ならぬ人間なのだと言うことです。人間こそが、この宇宙の原動力なのです。

自分自身が、Aeonであるということのメカニズムは、フォーチュンの中にすべて示されているのだと思います。

だからこのフォーチュンというカードを超えていく時には、自我としての自分ではない自分を発見したということなのだろうと思います。

しかし、ここを通る時には、磨り潰され、粉々に挽かれるということを受け入れる必要があります。

その覚悟ができた時には、全てはタイミングだと思えるのかも知れません。全ては起こるべくして起こっているということを受け入れることは、すでに終わりを見たものでないと受け入れられないものなのかも知れません。

それでも、みな、何度も何度も、ここを通り抜けようと試み、傷だらけになってきたんだよね。

それらはすべて意味があるし、後でちゃんとわかるようになってるから、何度でもトライすればいいんだよ。

運良く、粉々になることができたなら、グリッドを見出すことになるんだと思います。

スリーカード

最初に並べたスリーカードの並びを見ていくと、僕は粉々になったから、星を見出せているのだと思います。そして、やがては松明を掲げて動き出すのかも知れません。

フォーチュンを見ていたら、どんどん吸い込まれて、言葉が湧き上がってきたので、それを書き留めました。

たしかにここを超えていく時には位相が変わるというようなことがあるのかも知れません。しかし、人として生きるということは、すべからくこの車輪で粉々に挽かれるということだという表現は、あながち間違ってはいないのかも知れません。

だから、どんな経験もハレルヤですね。堂々とぶつかって粉々になるというのも悪い選択ではないです。


吊るされた男

ここまで書いて、ひとつ前の記事で書いた「吊るされた男」のことが気になりました。

しばらくこのカードを眺めていましたが、このカードはむしろ福音ですね。チャレンジしたからこそ吊るされたのだとしたら、これは最後の最後なのです。

普通では見えない世界を見ることで、反対の世界を見ることで、反転のためのポータルにリーチがかかったということなのかも知れません。

そのことが見えているからこそ、この人は慌てもしないし、恐れもしないのでしょう。むしろ見えているからこそ、死をも恐れないのです。その先が見える位置というのが、この吊るされた男の位置なのだと思います。

だから、人は吊るされるべきなのです。むしろ進んであの位置にいき、そこから何が見えるのか、自分で見る必要があります。

クロウリーは自らそれを望んだと思うし、それだからこそ、彼は見えていたのだろうと思います。スクエアの壁は本質を常に見えなくさせる壁ですが、その先に何があるのか、ただ見物しているだけの人には絶対に見えないのです。

だから、みな、あそこに吊るされる必要があるのだと、クロウリーなら言うでしょう。ここまで書いて、何か気持ちが鎮まりました。なんか言わされてるのかも知れません。ハングドマンについてはこれでいいようです。

最後に「星」の中に入っていきたいと思います。

このスターのカードを見ていたら、僕は踊りたくなりました。無性に踊りたくなりました。

中学生の時、天体望遠鏡で遠くの恒星の輝きを見ていた時にも、たぶん同じように身体が疼いていただろうと思います。

割れた頭蓋骨の隙間から見える星々というのは、ひとつひとつにズームアップしていったら、こんなふうに見えるんだろうと思います。そして踊りを誘っているのだと思います。

ここに辿り着くために、ラクダとプリーステスの力を借りる必要があったのかと思うと、あのワークもやれて良かったと思います。

そういう意味では、中学の時の天体望遠鏡もまた、プリーステスの息がかかっていたのだと思います。そのおかげで、名もなき小さな小さな星の光を、僕はこの目で直接受け止めて見ることができたのですから。

あの時見た光は、星によって微妙に色が違い、輝きが違い、スペクトルが違っていました。それらの様々な光を受けて反応することで、僕はいろんな情報を受け取ることができたんだろうと思うのです。

孤独な中学時代だったけれど、天体望遠鏡を買ってもらえて、毎日のように星を見る機会が持てたと言うことは、本当にラッキーだったと思います。

思えば、あの星の光に反応する、心の機微みたいなものは、ガムランの響きに反応して細胞が震えるのと同じことだったようにも思います。

そんなこと言ったら、人と話す時だって、人と触れ合う時だって、みんな同じなんだよね。

ほんの些細な刺激であっても、それを感知して、それに反応すると言うことは、この宇宙の中で、個として生きる上では、唯一の印なんだよね。

だから、星の瞬きに耳をすませるように、生きたいと思うし、ほんの少しの変化にも気づけるようになったら、どんなにか生活が潤うだろうって思うんだよね。

星と同期したならばどんな動きがハプンするのか、そんなこともやってみたいなと思います。

トートタロットを旅する舞踏的アプローチみたいな。笑

まあ、パスワークの範疇ではあるけどね。でも、「星」を見ていたら、ほんとにそういうこともやってみたいなと思えてきたよ。


ということで、とりとめなく、今日は終わります。なんか、文章を書くと言うより、メモったという感じでしたが、なんか、これはこれでいいんだろうなと思います。

さて、明日はどんな日になるだろう。楽しみです。

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