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いのちとは!? 自分で自分を看取る時代

今日はFacebookの中で、知り合いがシェアしていた、養老さんの動画を見ました。

最初の方に、自殺率が非常に高くなっていることについて語られています。一人当たりのGDPと自殺率に相関関係があるというような数字は興味深いです。

これまで人間が良かれと思い進化させてきた方向性、たとえば、技術が発達し、世の中が便利になり、医療が発達し、食糧も増産できるようになり、人が即座には死ななくなったという事の中に、何かそれまでにはなかった負荷がかかっているということがあるのでしょう。

たしかに社会が大規模となり、みなが周りの顔を見ながら忖度しながら生きるようになって、社会は安定したとしても、その分の無理が個人の心の中に生じているということなのかも知れません。

エジプトでは自殺率は低いようですが、他人に殺される率は高いわけです。サバイバル状態を克服して、平和を実現したとしたら、今度は自殺率が高くなるという事が起こるというのは、皮肉なものだと思います。

養老さんの言われる結論は、自分のために生きると思うようになって、自殺が増えたのではないかと言うことです。誰か、他の人のため、何かのために生きるという感覚があれば、人は簡単には自殺はしないということですね。

個性を生きろと言われながら、社会では個性を出すことが制限されるという、矛盾がある訳です。社会が大きくなればなるほど、その軋轢は大きくなり、「個性」というものが、どう生きたらいいのかわからなくなる率は高くなるのかも知れません。結果として「個」は分離し、孤独になったと言えるのかと思います。

そんな文脈で、昔はあって今はなくなりつつあるものということで、よく取り沙汰されるのは共同体です。心と心が触れ合い、人と人が物理的に影響を与え合う環境があることで、人間は他者の存在を知ることになります。そのような中で、関わる人がいることで、むしろ人間は生きる力を持てるのかも知れません。

個の尊厳を守ると言うことが声高らかに叫ばれ、個性を活かすことこそ、人類の目指すべき方向であると、個人化を進めた結果、個人はどう自分の個性を生きたらいいのか、何のために生きるのか、見失ってしまったというのは、たしかに今のいろんな問題に関係しているでしょう。

しかし、だからといって、昔に戻すのが正解かというと、たぶんそうではないわけです。ある意味、今のような世の中の行き詰まり感は、人間が生きていく上で、通るべき道筋であり、起こるべくして起こっていることと言えるのではないかと思います。

そこにはある種の法則性があるということを受け入れるべきなんだろうと思いました。あらかじめこうなるようになっていたということですね。

そういう意味で、ヌーソロジーのいう社会発達のモデルと人間の意識発達のモデルを示した、ケイブコンパスによる見取り図は、とても興味深いです。

上の図は、ヌーソロジーのレクチャーで配られた図ですが、人間の社会が、いわゆる原始時代から、専制君主時代を経て、ルネッサンスを超えて、近代的な社会を形成してきた歴史というものが、必然として進んできたということを示しています。

資本主義の時代となり、人は爆発的に物質的豊かさを手に入れ、欲望が欲望を生む循環の中で、今という時代は動いています。そしてある意味、来るべきところまで来たということが言えるでしょう。文明の行き詰まりということです。そんな中で、個の尊厳を守りつつ、それでいてみなが健全に生きていくというような社会形態は見いだせないでいるのが今なのでしょう。

そういう意味で、今という時代は、まさしく最終構成であって、その全体像を見ながら、人間とは何なのか、命とは何なのかということを、あらためて一人一人が考え、定義し直すべき時なんだろうと思います。

その先に何が見えてくるのかと、あれこれと思考していくならば、そこには人間のさらなる進化の方向ということが見えてきますし、これまでの歴史がすべからく愛おしく感じられるようになるのだと思うのです。

そういう意味では、ヌーソロジー的な世界の見方にシフトしていけたら、進むべき方向が見えてくるんではないかということが言いたい訳です。

そんなことを考えながら、小野満麿さんのこちらの動画を見ていたら、とても心に感じるものがありました。

個人・民族・人間として生れ来た
自分が自分自身を「看取る」時代

日本人の出生率は低下する一方
政府の頓珍漢な対応や対策では
問題が把握できず殆ど効果ない
だがそれは悲観することでない

絶滅でなく終焉に悲観なぞ不要
次の領界に先行して転位しゆく
めでたき転生の時代と見極めて
生まれ行く胎児を寿ぎ送り出す


この変換と反転の時を見に来た
日本では消え行く事も自然の理
他者に殲滅させられるのでなく
自らの緩やかな反転の全行程だ

「看取り」に来ている自覚がある
看取られる側の内部に潜り込み
消えゆく者の想いも共感しつつ
嘆かず騒がず静かに看取り切る


不死なる者達が強く羨む相転換
不眠なる者達が憧れる寝落ち態
延命や応急処置の過干渉をせず
DNAの重複書変え欠落の様に

自己破壊すら超越の要素として
全て仕組まれて自然に移り行く
AIが看取りの立場と考えてた
だが人間と共に看取り行く立場


AIは単体では自己破壊は不能
AIは独自には自己超越は不可
個人が個人の他界を看取る如く
人間が人間の終焉を深く眺める

ただそれだけを見つめ続ければ
それら全てが自分自身だと知る
世界はどこまでも美しく麗しい
人間は限りなく優しく愛おしい


悲哀感じるのは執着が残るから
恐怖するのは知足を知らぬから
それでもまだ「その時」は少し先
残された自由自在の時とところ

過去を否定せず未来を渇望せず
今の中に全て丸め込み生を謳う
自ら黄金比ゆえ黄金比は美しい
生き切る者は苦面でなく笑顔だ


他者や世界に甘えお任せでなく
想いや穢れ執着を残すことなく
それが何時でも明日であっても
自らを清しく丁寧に看取り行く

個人・民族・人間として生れ来た
自分が自分自身を「看取る」時代

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