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8月11日の稽古のこと

今日は火曜日で、稽古から2日経ったところです。稽古で体験することは言葉にするのがむずかしいことがあり、また膨大な情報量を伴うこともあり、なかなか簡単に書き残して置けなかったりします。書き出すことを躊躇することもあります。

しかし、ちゃんとまとめ切れなくても曖昧なままでも、書いてみて残しておくということはほんと大事なことだと思うのです。呼び水とはよく言ったもので、その姿勢に見合った何かが無意識的に出てきたり、つながったり、見えないところで準備されているのかもしれないと思うところがあります。

やはり書いて反芻することも稽古の一環なんだと思うのです。そんなつもりで自分的にはいつも稽古について、特にこのnoteに記録してきたのですが、このところ続けて稽古記録をアップしてくれている、稽古場仲間の桃子さんのnoteを読みながら、他の人が書いた記録を読むことで、稽古の中やシェアのタイミングではまだ言葉にならなかった気づきというようなものも、少し時間を置くからこそ見えてきたり、何かシンクロのようなことが起こっていたことにあらためて気付けたりして、さらに深みが増すような気がします。

どのような稽古だったのか、丁寧に書かれているので、ぜひ読んでみてください。

僕自身の言葉でも少し書いておこうと思います。

最初の床稽古では図と地といいますか、空間と空間の中にいる自分の身体と、その境界の部分を意識することで、普通はあまり意識に上らない空間の側がクローズアップされる感じでした。緩いプリンとか寒天の中に腕を入れてその中を掻き回している感覚と言いますか、そうこうしてるうちに、身体全体が緩い寒天のようなエーテル空間の中で空間の抵抗を感じなら揺蕩っているというような感覚になりました。

それはずっと目を閉じたままでやるということと皮膚の境界を意識するという設定があったからこそ生まれた体感だと思います。この、特に寒天のようなエーテル空間のような少し粘性のある空間を揺蕩うことは、おそらく三次元に対する四次元的な何かを体感していることではないかと思うので、これが当たり前になるように日常の中でも意識してみようと思います。

そして、後半のコロスの稽古ですが、細かいことは桃子さんの書かれたものを読んでいただけたらと思います。

この時に感じたことは、本当に悠久の時の流れであり、円環であり、永遠の後にまた再び始まりに帰ることであったと思います。

木の枝を次々と手渡していく時にそれはDNAのようにも感じられました。受け取った人は自分の個人の人生を、回転することで完結し、その生き様が枝に上書きされ、それを次の人に手渡して役目を一旦終えるわけです。受け取った人はさらにそれを次の世代に繋ぐというような流れ。

すでに枝に触れた人は一つにつながっているように感じられましたし、まだ枝に触れていない人とは明らかに違う感じがしました。自分が関与した大事なDNAが運ばれていき、今枝を手に待っている人だけが生きていて、他の人は死の世界からそれを見守っているというような世界にも見えました。

やがて僕から始めた枝の手渡しが一周して帰ってこようという時、とてつもない円環がここにできるということに気がついてとても動揺しました。喉が渇きを感じるような、そんな緊張の時でした。再び枝を受け取り、円環が完成した時には身体中がぶるぶる震えていたようにも思います。

手に持ったその枝はそこに関わった皆の魂の結果であり、皆の人生が重なって上書きされて創造されてきたものであり、きっとそれは新しい宇宙の神話となるのかもしれません。もしくはそこに新しい宇宙の設計図のようなものができているのかもしれません。

皆で創造したものだから全ての方向に回転させて、全てを回収して、最後には皆でそれを掲げたくなりました。一歩進み出て、天に向けて枝を立てた時に、それで何か大事な儀式的な行為は終わったように思いました。あとはこの枝を残して静かに消えていくことだと思い、枝を立て、床に倒しました。床に落ちた瞬間、何かが根本的に切り替わる時だというようなことを思いました。

枝が床に倒れた音は少し乾いた音でしたが、その音を身体で受け止めて、感極まるようでした。皆で一礼をして、全ては終わり、ただ静寂が残ったという感じだったでしょうか。

なんだか、とても心に残る稽古になりましたし、機会があればまた何度もやってみたいと思いました。

桃子さんのnoteの中で紹介されていた最上和子さんのブログが、このタイミングでまた読んで、とても腹に落ちてくるものがあってので、それについても触れておきます。


一部抜粋

稽古場の他者を自分の鏡にして。稽古している時だけは、魂が洗い出される、そういう場所で稽古場はありたい。稽古場では、他者のむき出しになった魂に立ち会うことができる。それも大げさでなく、ムリのないかたちで。とても静かに。ふだんの生活では決して見ることがないものだ。そしてひとりでは自分と向かい合うことが出来ない者も、ひとつの場が実現してくれるものがあるかもしれないのだ。最初から自分が見えている者はいない。

なぜ踊るのか、近代的自我をどのように乗り越えていくのか、踊ることの意味は自分で探さないといけません。能動的であるということが創造者としての第一歩なのですから。

そして稽古の場は創造のための坩堝みたいなところで、おそらく錬金術の現場でもあるでしょう。魂を洗い出し、楔を探す場所であり、それが稽古場だということでしょう。

そこに魅力を感じて引き寄せられてくる人はかなりの変人かもしれないけれど、もしかしたら唯一の可能性なのかもしれないと思ったりもします。また、今回の稽古を噛み締めて、次も楽しみです。

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