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位置の交換と舞踏と壊れたHDDに思う

「位置の交換」って主体と客体の交換ということ。

これは普段主体だと思ってる「私」が客体となり、目の前の景色や物の方が主体であるということ。

その時には「私」は脳ではなく、身体でもなく、「もの」になるのですね。そして時間はなくなります。

いわゆる持続の中にいる状態。中今ともいいます。それは地球になるとも言えますし、自分は地球だったんだということに気づくというふうに言えるのかもしれません。

「私」と「もの」は円心関係にあるので実は次元が違うのです。「私」の周りに「もの」がたくさんある時には、「私」がいますが、「私」が「もの」の周りを回って「もの」を見つめている時には「私」は消えます。

そして「もの」の方が主体ということに気づき、「私」が消えている時が「位置の交換」であり、人間の進化の方向はそちらの方にあるということになります。

舞踏でスローで動いている時に入っていく変性意識の中で立ち上がってくる空間も、この持続の空間といっても間違いないのではないかと思います。いわゆる器官なき身体です。

普段の意識状態と、そのような意識状態と、自由に選んで行き来できるようになることが変換人ということだと思われます。

やがてあちらが普通になる時が来ると思われますが、その時には今のような存在の形態とは変わっているのかもしれません。はたしてどんなふうに移行していくのか、とても興味があります。

ですから、次元上昇というようなものが勝手に起こるのではなく、主体と客体についての空間的な構造について思考的に理解し、実際に視点がグレンとひっくり返ることを体感していく必要があるんですよね。それには少々練習も必要なのかな。

そのためにどうすれば良いか、どうすればそれがわかるか、なんかそういうことについてのノウハウをシェアしていくという事は、もしかしたら僕らしい仕事になるのかもしれないと思いました。たぶん、今の時代に、すごく大事なことだと思うのです。

昨夜、冬至の前というタイミングでパソコンが壊れました。HDDが壊れ、データが取り出せなくなりました。まあ、結構大変なんですが、それでものほほんとこんなこと考えています。

パソコンが壊れて、「私」は狼狽えていますが、「もの」側に位置した時には、何も不安は感じません。起こるべくして起こったと感じてるって感じかな。

考えてみたら、データは情報の記録ですが、それはデジタルの記録であり、ヌーソロジー的には内面なんですね。ですから、元々「無」なんだと思うとそれはそれでいいかと思えます。

外面側の持続に蓄積された記憶は、累々と連なる履歴と共にありますから、トーテムポールのようなもので、絶対に損なわれません。ここにクオリアの源があり、魂のルーツがあり、生きているということの本流があるわけです。

このタイミングでパソコン壊れるというのもなんかあるのでしょう。HDDのデータが戻ってくるかどうか、まだわからないけど、どのようなことになったとしても、思し召しということで受け入れようと思います。

むしろ、記録と記憶の違いについてよくわかりましたからね。その違いは死と生というくらいに差異があるということ、普段はなかなか気付けませんから。

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