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ただいま発酵中!

今朝も3時過ぎに目覚めました。昨日は2024年最初の原初舞踏の定例稽古ということで、考えてみれば、昨年最後の稽古が12月24日、リハーサルが12月29日、新年会本番が1月7日、そして昨日の稽古が1月14日ということで、この3週間の間に、とてつもなく濃密な時間を過ごしたということと、それらの結果、自分にとって大きな変化があったということを実感することになった、昨日の稽古でした。

身体の中で何か発酵してるような感じがあって、シュワシュワしているというようなことも、今もまだ続いています。

特に新年会の本番を終えた後から、この感覚は強くなっていて、このシュワシュワがあるからこそ、夢を見せられたり、気づきを与えられたりして、何か意味のある経験が加速的に進んできていると感じる1週間でもありました。

この1週間、新年会での自分の踊りに関しての反省に随分エネルギーを使ったような気もしますが、それらがひと段落ついて、そこからの学びとして、原初舞踏の基礎のところにもう一度ちゃんと向き合おうと思って臨んだのが、今日の稽古でした。

この体内で起こっているシュワシュワについて、何か発酵しているみたいなとも表現しましたが、それは微振動というか、沸々とたぎるような身体の響きのようなものでもあったので、なんだかそれに委ねるような気持ちで今日の稽古に参加したような気もします。

それは集中の中心となるというか、何かエネルギーに方向性をくれるというか、なんらかの意味を感じるというか、意識はひとりでにそこに向かうというか、とにかく集中がさらに集中を呼び、濃度を増していくというような感じがありました。

それはとても楽しい、めくるめく、身体内の宇宙探検というような感じでもありました。濃度によっては衝動に点火されて、一気に身体が持っていかれるような、ワクワク感とドキドキ感がありました。

エクスタシーと言ってしまえばそれまでですが、それは起こすというのではなく、起こってくるのを眺めているうちに、いつのまにか臨海に達するというようなもので、そのこと自体が新たな自分を発見したり、発掘したりするプロセスのようにも感じていました。

感情の発掘作業をしていたようにも思います。「背後の稽古」の中で、後ろを向いて動いたあとで、最後に前に振り向いて踊りましたが、背後が濃くなった分、はっきりと過去に出会ってお別れした人との出会い直しがあり、とても深い体験となりました。

また、スローの稽古の中では、お茶碗とひとつとなる感覚がとても強くて、今までで一番濃厚なスローの稽古となったようにも思います。自分の今いる場所が、まるで海の中というか、いや海水よりもさらに粘度のある水の中にいるような感覚があり、それもまたある種のエクスタシーでありました。

それが何を意味するのかわかりませんが、もしかしたらヌーソロジーが言うところの、モノの中、素粒子の内部空間的な何かを、疑似体験しているのではないかと思うところもあります。外はありませんし、時間はありませんし、いわゆる三昧の境地と言ってもいいのではないかと思うところもあります。

この日の稽古のポイントは「縮むと膨らむ」でしたが、このスローにおいても縮んでいく時の中心となるところを見つけて、そこにお茶碗をつなげるというところから始まった冒険と言う感じでしたから、収縮の勢いのままに 反転してエーテル空間に抜けていても不思議ではないと思います。

この「縮むと膨らむ」という方向性と、僕の身体の中で発酵して起こっていたシュワシュワした微振動が共振したと言うか、お互いを求めたと言うか、そこには明らかな親和性があって、信頼関係があって、むしろそれをこそ待っていたと言うような宿命的な関係性さえ感じられるようなことだったのかも知れないと、今になって思うところがあります。

そう言えば、新年会での踊りでも、この縮むと膨らむの動きを意識的に取り入れていました。剣を抜いたあと、老人は宇宙大にまで膨張し、その後収縮して特異点に達するのです。その結果、剣を置き、鎧を脱ぎ、仮面も外して生まれ変わることになったのでした。

そう言う意味では、この日の稽古は僕にとって、新年会の踊りでやろうとしたことの振り返りの場でもあったのだと思います。

そして、本番では残念ながらできなかったと思うところについても、床稽古や背後の稽古の中で、本来こうしたかったんだと言う動きを発見することができて、それもうれしかったことでした。これがやりたかったんだ、こうすれば花として咲くことができたのだと言うことを実感しました。

本番でできなかったのは残念ですが、リハーサル、本番とチャレンジしたからこそ、ようやく気づけたことでもあるのかと思うと、本当にこの宇宙は完璧に見せてくれてるし、プロセスとしてとても優しい流れだったと感じます。

舞台は公開処刑というのも事実ですが、その処刑は生まれ直しのために必須だからこそなんだと思います。何度も例に出して恐縮ですが、カスタネダが谷に向かって飛んだということの意味も、まさに同じなのではないかと思います。

準備して、たくさんの時間をかけて準備して、その上で、実際に飛ぶ時には、準備したものを全部振り解いて飛ばないといけなかったりします。準備したものに囚われすぎていると、準備したものに絡まれてしまって、飛べなかったり、墜落してしまうということもあるのかも知れません。

昨日の最後のシェアタイムでは、新年会の踊りの話もしましたが、その中で僕の踊りを褒めてくださる言葉も耳にして、たしかに良いところもたくさんあったということに思い至りました。しかし、踊った当人にとってはできたところではなく、できなかったところの方が心に残るものであり、だからこそさらに進化する可能性があるとも言えるんでしょうね。

シェアの中で、予期せぬことが起こることもどれだけ信頼して受け入れるのか、準備したものをどれだけ潔く手放せるのか、安全に行こうとすればするほど起こるべきことも起こらないとか、そんな話をしながら終わることのない実験をしているような気がしてきました。

それでも、やはり飛ぼうとしなければ絶対に位置は変わりませんから、たとえ失敗したとしても、飛ぼうとする意思は気高いと思いますし、意味がありますし、そのような経験をしたことのある人は、とても優しいということを実感しました。やはり、孤独な鳥は嘴を上に向け、優しく歌うんですね。孤独な鳥は人を批判したりなど絶対にしません。

原初舞踏の稽古場は洞窟に例えられますが、そこはシュワシュワと常に発酵音が聞こえる場所なのだと思います。そして孤独な鳥も羽を休められる場所なのだと思います。そしてみな、そこで飛ぶための準備をしているのでしょう。

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