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カウンセリング日記⑤|自分の中の無意識に、目を向ける。

みなさん、こんにちは。本日もアクセスいただきありがとうございます。

最近は月1くらいでしか更新できていませんが、日常におけるささやかな喜びや気づきを綴っていきたいという気持ちに変化はなく、「最低でも月に1回は更新する」ことを目標にして、ゆるく続けていきたいと思いますので、引き続き、よろしくお願いいたします。

さて、本日も「これだけは欠かさず書く」と決めているカウンセリング日記を書いていきます。いつもの通り、書くタイミングがいつも次のカウンセリングの前後になってしまい、今回は6月分の振り返りです。笑

今までの記録はこちら↓↓

これまでは、母のことを中心に書いてきましたが、ここ最近で良い変化があったとすれば、私があまり母の感情に振り回されなくなってきたということです。

前回のカウンセリング日記では、母のことを考えて辛くなってしまうという率直な気持ちや、それが仕事にも少し影響してしまっていることなどを書きました。でも、それから1ヶ月くらい経ちますが、時間のおかげもあってそういったネガティブな気持ちは少しずつ薄れています

とはいえ、感情は波があるものなので油断はできないのですが。

これまでを振り返ってみて、カウンセリングで教えていただくことは、その多くが自分の中でものすごく腑に落ちるものであり、日々の生活にすぐ実践として取り入れることで、自分の感覚が少しずつ「良くなっていく」のを感じています。

今回のカウンセリングでも、自分が見ている世界を、いや正確には、自分が日々世界を見ているときにかけているメガネのレンズを、アップデートしてもらうようなことがありました。

これによって起きた最近の自分の行動における大きな変化は、母の機嫌など関係なく、自分がしたいままに行動するようになったことです。

文章にしてみると「それって別に普通のことではないか??」と思われる方もいらっしゃると思うのですが、自分にとってはかなり勇気のいる行動であり、自分自身の意識を変えるための大きな一歩になったと思います。

これを、具体的なエピソードとしてお話ししてみます。


ある日曜日の朝のこと。

早朝に母親に叩き起こされ、「PCが使えない。このままでは礼拝のための週報(その日の曲目・メッセージ箇所やお祈りの依頼などが書かれたもの)の印刷が間に合わない。」と言われました(私の母は牧師です。)。

ちなみに、ここ2ヶ月は、PCも印刷機も最新のものに変えたという背景があり、毎週のようにこれが起きています。

私は、大して調べもせずに、何度同じことを教えても操作を覚えようともせずに、娘になんの悪意もなく毎週のように依頼してくるその姿と、シンプルに自分のペースで起きられなかったことに、とてつもなく不機嫌になりながらも対応していました。

1ヶ月前までの私は、イライラしながらもそれを押し殺して、週報の印刷をこなし、礼拝に出て、奉仕もして、非常に憂鬱な日曜日の午前中を過ごしていました。それは、自分のためというよりは母のためという自分のエゴ(なので結局自分のためではあるのですが)であり、母が大事にしてきたものを壊さないようにしたいという勝手な私の思いからくる、もはや無意識に近い行動でした。他に選択肢を考えることができなかったのです。

しかし、先々週の日曜日は、印刷を終えたところで、(何を言われたかあまり記憶していませんが)「私に対してちょっとその言葉は許せない」と思わされる何かを言われたのだと思います。そんな母の態度に対して私は、「そんなこと言うなら礼拝出ない。じゃあね。」と言ってそのまま2時間ほど家を帰らないという暴挙に出ました。


大前提、あまりにも子どもすぎるエピソードだなと思います。「依頼している側としてやってほしいことが、依頼される側としてやりたくないことである」というただシンプルなことのはずなのに、感情に任せた強制的な行動のぶつかり合いでしかコミュニケーションが取れていないというなんとも幼稚な出来事なのだろうかと。。

そして、今までであれば、こんなことでも、家に帰れば「とんでもなく叱られていたこと」のように思いますが、母は今回、私に何も言ってくることはありませんでした。このことで、「もう、諦められているのだな」と確信をもつことができましたし、「自分の感情を大袈裟に行動に出すことも大事なのかもな」と思いました。

これは、お互いが依存から解消されるための大きな一歩だと感じます。

また、このエピソードに限らず、最近の私は日曜日に家を空けることが多くなってきています。

話は少し戻りますが、この行動のきっかけとなったのはカウンセリングの先生のアドバイスです。

私がカウンセリングで感じた感動を、面白く伝えられる自信がないので詳細は割愛しますが、アドバイスの中身だけ簡潔に話すと「心の動きを刺激に対しての反応と捉える」、つまり「心は自分でコントロールできるものである」という考え方をするわけではなく、「身体で感じた出来事や刺激に対して、自分の心はどう反応しているのかを観察する」という考え方をするということです。

んー、これについては分かりやすく伝えられている自信がなくて恐縮なのですが。。。気になる方は今度ご飯でも行きましょう!話します!笑(雑)

それまでは「心がざわざわする」と、それが自分の中で無意識に「罪悪感」や「自分が悪い」に無条件に変換されていました。とくに母のことがそうです。育ててくれた母親への自分の態度が、いわゆる“良い子”ではないことへの罪悪感の呪縛から逃れられずにいたからこそ、苦しかったのです。

しかし、「心がざわざわする」ことが、「母が起こすアクション」への「刺激」だと考えてみると、自然と「母から(物理的に)離れれば心はざわざわしない」という理論にたどり着くことができます。そうであれば、私は一時的にでも距離を置けば良い。家を出てみればいい。

なんて簡単なのでしょうか。

アドバイスを受けて、自分で感情をコントロールするというよりは、感情が荒波にならないための行動をコントロールするといった意識に切り替わりました。そもそも、感情をコントロールするという文字通りの行為は、今の私にとっては幻想でしかなかったのかもしれません。

このことが結果として、より自分の心の動きに対して(いい意味で)敏感に、そして冷静になったと思います。

最近のカウンセリングでは、「レクチャー」の割合がとても多くなっており、つまりカウンセリングとしては母の話をする時間自体はどんどん少なくなってきており、このこと自体は私としてもポジティブに捉えています。

今回は、かなり仕事に紐づいた話が多く、今までにないくらい楽しい時間を過ごせました。

ちなみに、7月のカウンセリングも楽しかったです。笑
来月になると思いますが、こちらも振り返りを書いていきます。引き続き温かい応援のほど、よろしくお願いいたします。

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