見出し画像

価値の転換 凡庸な自分を受け入れること

自分が凡庸であることを真っ向から受け入れる

二十歳やそこらで、あれ?自分は特別じゃないぞって気づいて、そこからは何度となく挫折を味わうものだけど、その度悔しくてコンチクショーって思ってもがいたり、言い訳をして逃げたり、まあ色々と手を打つわけだ。
でもそれはまだ純粋培養で努力次第で特別にはならなくても、それなりにはいけるんじゃないかと思っている、根っこのところで。大なり小なり。

私は諦めの悪い人間なのでそれは別にいくつになっても努力はすると思う。誰かに褒められたり、承認欲求で、いいね!されたいとかも大事と言えば大事だけど、私は究極、2人から褒められたらそれで良い。自分が一番大事と思う人と、そして自分自身。そしてそれが一番厳しいハードルだったりする。

さて、私はそんな想いがありつつ、仕事とは別に分科会のようなものに参加し始めている。NPOの代表の方が声をかけて大学准教授の方、コンサルの方、出版社代表の方が参加していて、障がい者支援や地域活性化についての取り組みを検討している。そんな中で何で私が?というのが正直な感想で、この前の集まりの時にも、自分はこの中で何が出来るのだろう、と考えるうち、どんどん口を閉ざすことになってしまった。

1時間ほどが過ぎたある会話がきっかけで何となくヒント、方針が得られた気がした。
「トークイベントやパネルディスカッションをするのは良いが、それは本当に伝わるものなのか。セミナーや講演会に来る人のほとんどが、『理解はしたけど、どうせ自分には出来ない。会社の方針があるし』等と免罪符をかざして終わるのではないか。」と出版社の方が言った。それは誰かを責めてるのではなく、多くの人はジレンマや不満を感じながら、勇気や少しの何かが足りなくて踏み出せないんじゃないか、ということ。それが「普通」なのかもしれない、と。

あぁそれは私だなと感じた。
言い訳をして、頑張ってることがあると免罪符を作って周到に自分を騙してるなあと。もがいてるけど、肝心な一歩は踏み出さない。だから能力も可能性も関係なく、ずっと変わらない。
自分が凡庸であるのはそこだと、その時素直に受け入れた。

この集まりで何が出来るかといえば、自分のような人間が実験台になって、活動の中で一歩踏み出せるかどうか、踏み出した後、どんなことが会社の中ではなく、社会で出来るかまでをずっと見せること、そして集まりの活動も近い位置にいる一般人が動くようなものに、スクラップアンドビルドするのが良いのだなと、そう思った。
これは凡庸の価値の転換で、自分の活かし方で、ここからまた色々とチャレンジしてみようと思った。

あーしたほうが良いですよ、これがオススメ、私の成功事例です、と披露して、いいね!って言われる方がカッコいいのだろうけど、ちょっと自分はそのやり方じゃなさそうで。まあ、人は人ですね。

よろしければサポートをお願いします。自費出版(紙の本)の費用に充てたいと思います