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生きていることの確認をする

痛ましいことが起きて
ざわめきのなかで
ニュース速報のテロップが
点滅した瞬間

内容が映し出されるまでの
本当に少しの一瞬のうちに
何とも言えない感覚が
口の中に拡がって息をのむ

嗚呼…と思う
有名だとか偉大だとかではなく
命をおびやかされ
凶弾に倒れ、命が果てる
それ自体がことばにならない
感情が沸き起こるわけで
それをまた繰り返し繰り返し
映し出されると繊細だとか
そういうこととは関係なく
大なり小なり考えるのだろう

そういうことが起きると
すぐ批評家のように今までの業績や
医療関係者や周囲の対応がどうだったか
と、御託を並べる人がいるけれども
それを否定はしないけれど
私には興味がない
その場に置かれたならば私はどの役を
担えども批評する人の何がしかに
応えられるような行動はきっと取れないもの

すべては結果論
もう命は戻らない
昨日はやり直すことが誰にも出来ない

『あの日をやり直したいよ』

速報のテロップを見て
観ようか迷っていた映画を
思いついたように観る

遺された人間はずっと
そう思って立ち止まる
『何でだよ』と
いない人間を責めたり
『どうしてあの日自分は…』と
自分自身を責める

私も誰かにそういうものを
背負わせたのかもしれないなあと
しみじみと思う
いや、今だってそんなことは絶対にしないよ
だなんて言い切ることは出来ない

良し悪しの話ではないし
いつ何が起きるかなんて分からない
それを自覚しないままに
私たちは選択を積み重ねて日々を重ねている

『死ぬ気でやれよ。死なねえから』

そう、こんなに悩んだり苦しんだりしても
死ぬ気で、くらいに懸命な瞬間て
ほとんどない
同じ今日を過ごしたら同じ明日が待っている
どころか、もっと悪い明日があるかもしれないのに

そのことばを使った人たちはもう
いなくなってしまったよね
それだけに重みを感じることばでもある
私にとっては

人間は簡単には死なないし
死ぬことはとても難しくて勇気のいること

人間は簡単に死んでしまう
意図しないところで奪われてしまう

どっちが本当なんだろうね、ではなくて
どっちも本当なんだよね、うん

誰かとおんなじとか違うとか
どちらでないといけないとかではなくて
きちんと自分がどう生きるのか
周りを見渡した時にどうなっていると
安心したり、嬉しいのかを
きちんと自分で知っておくこと
それが大切なのだと思う

物撮りをしようとカメラを構えると
ダウンライトのせいで自分自身の影が
映り込んだ

分かってるよ、私は存在している






































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