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止まった時間、進む時間。失ったもの、受け継がれるもの。

夏休みに突入した7月後半。
夏休み一番最初の思い出は福島県南相馬市で行われた相馬野馬追祭り。
この相馬野馬追祭りは3年ぶりの開催で大いに盛り上がった。

このお祭りは3日にわたって行われるお祭りで、この日だけは歩行者も車も馬を優先しなくてはならない。各地域から参加する騎馬武者たちは各々の地域から会場である雲雀ヶ原祭場地まで約3kmの道のりを400騎余りで進軍するお行列。そして雲雀ヶ原祭場地に到着し、祭場地を4〜6頭ほどで人馬一体となって競争する甲冑競馬が始まる。その後、打ち上がる御神旗を馬上から落とさずに取り合いをする神旗争奪戦で幕を閉じる。これらはメインイベントとなっていて、このメインイベントは3日間のうちの2日目で行われる。
約1000年前から行われてきた伝統的な相馬野馬追。コロナ禍で3年も開催できなかった代償はあまりにも大きいものだろう。

 私の祖父は福島県南相馬市出身。その縁もあり、ずっと観覧してみたいとは思っていたものの、なかなかいく機会がなかった。しかし、3年ぶりに開催される伝統行事を今この学生のうちに見ておきたいと。思い立ったが吉日。すぐに祖父と母と予定を組み、行くことになった。馬が大好きな私にとってそれはとても楽しみなイベントだった。
福島には祖父の実家があったのもあり足を運んだ事は数知れず、しかしその中でも知らないことはまだまだたくさんある。
 町に着くと活気に包まれていた。こんな景色はいつぶりだろうと。まるでコロナなんかないかのようなそんな賑わいを見せていた。いい意味で現実を忘れられた。
 甲冑を纏った武者と騎馬。颯爽と馬で駆けていく姿はさながら戦国時代を思わせた。まるでタイムスリップしたかのようだった。そして今年の総大将はなんと14歳。わずか14年しか生きていないのにその威風堂々とした姿は見る者を魅了させただろう。
震災から11年。コロナが蔓延してから3年。時代は移り変わるとともに世代も移り変わるということを実感させられた。そんな1日であったと思う。

11年前から変わらない時間

私は福島に2日間滞在。
いろいろなところを見て回った。今は無き祖父の実家、それから祖父が小さい時によく遊んだという川など、自分が子供の頃や若い時に行った場所に私たちを案内してくれた。

 11年という短いようで長い月日で福島県はものすごいスピードで復興している。が、しかし、被災した全ての町が復興したわけではない。例えば福島県双葉郡浪江町。ここは11年経った今でも、時は止まったままだった。
干しっぱなしの洗濯物や草の生えた庭。やり途中だった何か。
放射能が高く、車からさーっとみただけだったが、どれだけ突然に今まで住んでいた家や土地を残して避難したのかが分かった。
私はそのような民家や町の様子を見ていろんな感情が渦巻いた。

進む時間


当時私は小学一年生。家には母と弟と私の三人だけ。その日はとても天気が良い日だったと思う。そんな中学校から帰ってきてランドセルを床に置いた瞬間だった。下からの振動。最初は小さかったと思う。母も弟もあ、地震だ。ぐらいの反応だったが間も無くして突き上げる様な地響きと大きな揺れが当時私たちの住んでいた団地の7階を支配した。母はその揺れにただならぬ気配を感じたのか急いで私と弟に玄関を開けるよう指示した。私と弟はすぐに玄関に走って行き、扉を開ける。するとお隣の人も何事かと部屋から出てきた。母も急いで玄関に走ってきて三人で玄関先から自分の家の様子を見ていた。すると次の瞬間に窓側にあった天井いっぱいの食器棚の扉が揺れの弾みで開いてしまったのか中の食器たちが雨のように降り注いだ。
その様子を見ていた母も私も幼稚園年長の弟も何がどうなっているのか判断ができないくらい絶句した。そして私は子供ながらも、もし母が私たちのいる玄関にくるのが少しでも遅れていたらと考えたようで恐ろしさと寒さとで震えが止まらなくなった。
その後私たちはここにいても危ないと一階に降りていくと団地の住民も外に出ていた。
一階に住んでいた大家さんが外は寒いからと家に入れてくれた。そこの家で見たテレビ中継は幼い私の心に深く鮮明に残った。宮城県や福島県の津波の様子だ。
海の方から町を飲み込んでいく黒い何か。その黒い何かの動きは止まることを知らないのか、車、人、町、建物をどんどんと飲み込んでゆく。しばらくそれを見ているとその黒い何かの正体がわかった。その黒い何かは海だった。
海が怒ったみたいに黒く変身して町や人を襲っている。初めて自然が怖いと思った。
それから福島県では原子力発電所が爆発。大量の放射能がその一帯を覆った。程なくして福島にいた祖父の実家と連絡が取れて無事が確認できた。
無事は確認できたものの、曽祖父たちは長年住んだ我が家から離れなくてはいけなくなった。そしてすぐに仮設に移った。曽祖父たちが仮設にいる間に一度か二度お邪魔したことがあった。曽祖父も曽祖母もまさか自分たちが仮設に住むことになるなど思いもしなかっただろう。東日本大震災の前の曽祖父たちは農業を営んでいたのでわりかし体も動かして、よく食べてという生活をしていた。が、仮設に移って何もすることがなくなると曽祖父は体調が悪くなり、曽祖母は認知症になった。
そしてその知らせから間も無くして曽祖父が亡くなった。95歳だった。
あの家に戻ることもできず、また、住んでいたところに足を踏み入れることもできずに亡くなってしまった。曽祖父が戦争に出ていたこともあり、葬儀は盛大だった。
よく頑張った。ただそれに尽きた。

その後、狙っていたかのように曽祖母の認知症が悪化した。仮設から宮城県の名取市に移住した曽祖母たち。私たち家族がいっても父の名前しか覚えていなかった。
認知症って本当に忘れてしまうんだと、少し悲しくなった。
ポッカリと穴が空いたような、そんな気持ちだった。
 そしてつい最近、その曾祖母も亡くなった。
ひ孫の代まで看取られて、きっと幸せだっただろう。
家主が亡くなってしまったあの家は、今もあの地に佇んでいる。変わらない、あの日のままで。
11年前のまま。あの日のままの部分もある一方で、時間はあの日を残して進んでいく。

最後に

 終わる人生と受け継がれるものは紙一重だと思う。誰かが生きた人生は、その子供、孫やひ孫、はたまた知人、友人にまで受け継がれていくものであって、ただそこで終わるものではないと私は思っている。
子供がいなくても、誰かしらに影響はしているものであると。

決して忘れてはならないことが、十何年経って人々の記憶から徐々に薄れていくということはあまりにも哀しすぎる。しかし、人はそういうものであって、その度に何かをきっかけに思い出して、また忘れての繰り返しなんだろう。
 でも、そのまま自分の意思とは裏腹にどこかへ行ってしまう記憶に、私はいつまでも忘れたくないと足掻いて、手繰り寄せていきたいと、歳を重ねる度に思う。

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