ぴのち
ヘッダーの写真は博多祇園山笠
どっしゃーな雨に降られて、カッパもなかったけれど、防水の風呂敷があったため、リュックは前にからい(背負うの方言。いや「背」負ってないけど)、頭と背中は風呂敷で守ったらなんとかなった。前はリュックが防ぐし、頭と背中は風呂敷が防ぐ。腕はどうせ半袖だし濡れるままにする。ズボンは仕方なく濡れるけれど、前傾姿勢のためリュックが少しはひさしになる。
リュックがずり落ちそうになるのと、風呂敷が飛んでいきそうになるので、それを押さえながらは曲芸状態で危なかった。それを改善したら今度からこれでいいかも。夏のカッパは暑くて着たくない。
おしゃべりしながら観る映画の会
「かぶりつき人生」ストリッパーの母娘。母と娘といえば、互いの確執がテーマになりそうなところ、そういう期待をするのが現代的な見方なのだろうが、最初の方は確執の感じで行くものの、最後の方は母の存在感薄く、そのまま終了して、確執のところは置いておかれた。昔の映画は思い切ったやりっぱなしが多い。娘が強かったから、母を恨んではいても、彼女の人生には母の存在が障害とならなかった。
展開にスピード感あり、次々男が変わるので、顔を覚えるのを途中で放棄した。映画の会は「あの人誰ですっけ」ができるのがいい。
ナイフが出てきてから人を刺すまでの時間が早いんよ。あっという間。前振りとかなし。左手前にものを配置するパターンがいくつか見られた。そんな感じ。
感想言うのが恥ずかしいと思ったらおしまいや。そんなの私の感想なのであって、おかしいことない。一旦思ったまま言ってみるまで。苦手やけど。
的確な言語化ができなくて。 それでもこうやってどうしてなのかを言葉で考えている。 言葉が苦しいのに、言葉で越えようとしている。不思議だ。
体の深いところで、 地球とつながっている感じを得たくて、 何もしないでいてみるものの、得られないから他の人に目が向くのかもしれない。得られない原因はシタクナイことをしているからなんだけど、「そりゃやらないとけないことだからだ」にとらわれてシタクナイことがやめられず、誰のための何をしているのか、という状況になる。
どうして空っぽの感じなのか。やっぱり感覚でしかわからないから人にうまく説明できない。よくわからない喪失感。ずっとどこか空っぽ。楽しかった分、空っぽの感覚が迫る。避けてきたのに、ぶつかった、事故。
ケーキを食べたいのか、プリンを食べたいのか、おでんを食べたいのか、辛いラーメンが食べたいのか、わからなくなってしまった。
おなかがすいているなら何かを食べたらいいのだけれど。心がすいているなら、何を食べたらいいのだろう。
全く新しい、発見。したくないことをもう一切しないで、直感に開けるような、発見をしないとこのもやもやは晴れないと思う。
逆に言うと、発見が近いのかもという予感。よくわからないけど、わかった!っていう瞬間が来る日まで待つ。
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