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傲慢と大根(いもうと)

あねへ

すっかりご無沙汰してごめんなさい。みんな元気ですか?
こちらはようやく暖かい日が続いています。数ヶ月前は雪だらけで大変だったのに、雪はとけて、桜も梅も一気に咲いて、ポワポワした八重桜もそろそろ終わりそうで、今日は近所の公園の藤棚に、花がいくつか咲き始めているのを見つけました。

前回の手紙の、補足をします。
あねが少女の私に伝えてくれた言葉のことです。
傲慢。辞書の意味は「高ぶって人をあなどり見下す態度であること」です。私はあねからもらった言葉は、忠告だと思っていました。周囲の人間関係で起こる不和に、全部ぜんぶ自分が関わっていると考えるのは、あまりに自己中心的な振る舞いであるとともに、そんなに何もかもがあなたのせいじゃないんだよ、と。
「全部私のせいにしておけばいい」というのは、後ろ向きな積極性をもって現状を結論づけようとする態度で、それは誰かの気持ちを慮ることや、対話の姿勢や、思考を放棄することでもある。それに慣れてしまうと、本当に自分が悪くて心から謝罪をするべきときでさえ、「どうせ私が悪いんでしょう?」という態度をとってしまいかねない。それこそ、傲慢な態度というものです。
あねはきっと、5年先を生きる者として、姉として、私の危うさに気付いたのだと思います。あねは父の機嫌や家庭の空気にいつも心を砕いていたでしょうし、また家の外でも、自分だけではどうしようもないことがある事実に、深く傷ついていたのですね。
私はあの頃、あねの言葉に傷ついていないし、今も金言だと思っているよ。あねを傷つけてしまったのなら、全くの言葉足らずでした。ごめんなさい。

けれど「全部私が悪いんでしょう?」と言って対話を拒否しようとする態度は未だ根強く、夫からは「話し合いのチャンネルを切らない!」と叱られています。しないように、とは思っているのだけれど、「私のせい、おしまい!」とばつんと断ってしまうことによって、責められることや、自分の落ち度に再度向き合うことや、傷つくことから逃げたがる悪い癖です。

この態度が「ありのままの私」、このままで「愛されたい」というのはいささか烏滸がましい。
いつかどこかで読んだ美輪明宏の恋愛相談に「ありのままの私で愛されたい、なんて、泥のついた大根をそのまま食べてほしいと思うようなこと。自らを磨いてちゃんと料理なさい」と書いてあったのを覚えています。

あねのいう「ありのままの私」は、大根の例えで言うなら、どんな大根もみずみずしくておいしい、大根は大根のままでおいしい、ということなのだよね。(譬え話ばかりするとまた弟に怒られそうだ)
大根、いいじゃない。おろしても細く切っても太く切っても、生でも煮込んでも干してもおいしい。大根を大根のまま、自信をもって活かしていけたらいいのに、どうにも他者の目が気になって、つい大根をトマトで煮込んだりしてしまう。無駄に飾るようなことをして、かえって自分を殺してしまう。「私はおいしくない大根だから!」と、投げ出してしまう。

でもこの繰り返しが、生きていくということでもあるのでしょうね。
大根を活かしたい、大根じゃないものになりたい、でも自分が大根であることは変わらなかった、ならばせめておいしい大根であろう、という……
トマト煮込みではなく、味噌汁でいいじゃないか。そういう、諦念のようなものを抱いて自分と向き合えるようになったのは大人になったからなのでしょうか。

怒られることや間違うことにびくびくしていた子どもの頃より、大人になった今こそ父の叱り文句が沁みるのです。
「傲慢だよ」「生意気だよ」「謙虚に」「素直に」!
もしかしたら、それは父が自分自身に何度でも言い聞かせたい言葉だったのかもしれない、とも思います。

「傲慢と大根」て「高慢と偏見」みたいだね。

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