政治と宗教

 第二次世界大戦後に日本国憲法の制定により内心の自由が担保されました。心の中でなら何を考えても誰にも縛られない時代が到来しました。しかし、今、宗教に関わる霊感商法などの問題が社会の全面に押しだされてきました。宗教を取り巻く問題の所在が明らかになっていない今の現実があります。
 宗教法人法を改正すべという意見もあります。又、一方では、霊感商法は社会的問題をかかえる団体で政治と宗教の問題ではないというい意見もありました。ここでいう政治と宗教の問題ではないということは、宗教内の社会の常識を逸脱した問題が発生しても容認されてもいいということではありません。これは、政治の問題ではなく宗教団体の内側の問題です。日本国憲法の場合は、公務員の権力が逸脱しないためのルールであるとも言えます。言い換えれば宗教の組織の中に、不正や価値観の行使に常識からの逸脱があればブレーキがかかる仕組みがあるかどうかです。しかし、それは国が宗教に強制すべきものではないと考えられます。又、あまり話題になりませんが、宗教法人の職員の在り方として問われるべきです。これは今後、人々が注視してくべき焦点になるべきではないでしょうか。
 国家が人の内心を干渉していけないという答えの鍵は今回の安倍元総理の国葬に如実にあらわれていたと考えています。国葬には、日本国内のみならず弔問に海外からも弔問に参列していました。国葬とは国家が喪主となって、日本に貢献した人の死をいつくしむ儀式です。今回の国葬の実施そのもの対して賛否両論がありました。今回の国葬で、国葬反対の人は一定数いました。これは、国民が内心に政治が介入してはいけないということを国民が内在的に理解している現象だといえます。国葬に反対の人の中で、国会で審議せず閣議決定ですすめて良いのかという意見もありました。一方で、国葬賛成の人の中で、国葬だからといって人々の内面を特に強制しているものではないという意見です。国家の内心への侵害の生疑は議論も含めて、常に人々を分断に陥れられるリスクがつきまといます。
 繰り返しになりますが、政治は国家権力を行使した宗教への介入はできません。政治が宗教に介入できるようにすることは、国民の内心の侵害に当たり、問題の所在の解決には結びつきません。むしろ、新たな問題の発生の起爆剤になってしまう恐れがあります。
 政治と宗教の判断の拠り所は、自然法にあると考えています。価値観を行使する局面において、誰に言われなくても人間として守るべきルールが守られているかにかかっているのだと思います。
 政治においても宗教にあっても人々は、悲しみも矛盾を感じる憤りも自分の心の中でとどめるのではなくて、人と人のつながりの中で共有していくことによって答えをみつけ、社会の安全が確保されていくものなのかもしれません。 
 政治は国家権力で宗教に介入するのではなく、宗教に対して、自らの価値観を行使する際に、常識を逸脱している局面の有無の検証を宗教そのものに自己点検をまずは、呼びかけるべきです。それが政治と宗教の関係とは何かを明らかにする第一歩なるのではないでしょうか。こうした取り組みによって政治と宗教が本当の意味でお互いに真摯に向き合うことに結びつくにことになっていくに違いありません。
 国民が納得できる対応ができるかどうか、岸田首相の手腕を注目していきたいと思います。

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