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紙の舟 ep.8

暫く時が過ぎた。
夏の陽の傾きと、長くなった陽の影を隣のビルの縁に見て、僕は軍艦マーチが喧しいパチンコの店内に入っていった。
江の「告白」があって、それからは、僕は彼女に対して努めて静観しようとしていた。
カウンターでは江がいつもの笑顔で迎えてくれる。大きな声で「おはようございます」と挨拶があった。
コンピューターの前に立ち、ひとつひとつの台を呼び出し、チェックしながらふと気が付くと、傍らで江がホールに流れる「軍艦マーチ」を足でリズムを取りながらそのメロディを口づさんでいた。
「江さん、その曲、何の曲か知っているの。」と声を掛けると「これ、軍艦マーチね。毎日かけてるね。いい曲よ。」と応える。僕は驚いた。
「この曲は中国を侵略した日本海軍の行進曲なんだよ。侵略を受けた中国人の君が口ずさむのは何か変だよ。」
僕は江がそのことを知らずに、中国に帰ってから自然に口ずさむ光景を想像して、いたたまれなくなってしまったのだ。
彼女を僕の座っているコンピーター前に呼んで説明しながら、コンピューターから出る紙片に要約した。
「軍艦曲子是日本帝国主義的侵略的象徴」彼女はキョトンとしている。
更に全般的なこと、現在も戦前に対して何の反省もなく、戦前と同じように差別的な社会のままでいる事も説明した。彼女は、日本が差別的社会であるという事には同意した。
「分かるよ。差別沢山あるね。日本は、女の人もまだまだ地位低いね。中国は平等よ。」
僕は、そのまま「律令(唐律)→身分制。身分差別的象徴=天皇制。侵略的象徴=天皇」という風に書いた。彼女はその紙片を僕からつかみ取って、じっと読んでいた。
軍艦マーチがいけないというのであれば、なぜパチンコ店で流しているのか。リズムがいいというだけの話なのだが、そのリズムに乗せられて戦争をしたという事実がスポッと抜けている。無意識に耳に入る戦争の旋律に、その曲の心地良さだけが強調されるのは矢張りおかしい。幾百年たって、このリズムが人々に感銘を与える事はあるだろう。だがこの曲は、まだ自分たちの生きている時代の出来事を奏でている。この曲で呼び起こされる惨禍を記憶している人々は多いのだ。
以前、若者の多い町のパチンコ店の責任者でいた時、僕は開店の時もビートルズの曲をかけていた。最近では最新の曲をかけるパチンコ店も増えて、軍艦マーチは流行らなくなったが、この新しい流れは概して変化を求め近代化を図る経営者に顕著に窺える。
うちはまだ遅れている。そんな軍艦マーチの流れる中に、僕は立っているのだ。
その夜、二十三時の終礼の前に、それとなく「東洋鬼」と紙に書いて江に見せた。
「江さん、中国で日本人の事こう呼ばれていると思うのだが、どう発音したっけ。」
僕はそれまでも、自分の覚えている中国語の発音を度々彼女に確かめていた。それは、それまでの彼女との関係を変える意味もある。
「東洋鬼」という文字を見て、江は一瞬ビックリした顔をして「早瀬さん、この言葉知っているの。」と驚いていた。そして僕から顔を背け、出来ないという様に手を振った。僕は東洋鬼の正確な発音を、ついに教えてもらえなかった。
それでも僕たちは中国語を通じて何か通うものがあるだろうと、出身地の話を聞いたり、言葉の遊びを楽しむようにしていた。
次の日、カウンターの中では干支の話に花が咲いていた。中国も日本も、干支は同じだという。
「江さんは何年生まれ?」
「私、トリよ。熊木さんは?」
「私、ネズミ。」同僚の女性が応えると、傍らで聞いていたホール係の中本が、
「俺はイノシシだ。」と話に入って来た。
「イノシシ? なにそれ。」江は首を傾げている。僕は猪と書いて彼女に渡した。
「ああ、これ、ブタね。中本さん、ブタ年生まれなんだ。」
「何で俺が豚なんだ。」と中本は憮然としている。
「中国ではイノシシはブタのことね。」江は真面目に応えた。同僚の女性は腹を抱えて笑っていた。彼の体形が中国語の干支そのものだったからだろう。
「中国語と日本語では、同じ物でも違う表現があるし、同じ書き方をして違う意味も結構あるからな。江さん、手紙は確かトイレットペーパーだったよね。」と僕が聞くと「そう。日本語の手紙というのは、中国語では信よ。」
同僚は、へーという顔をしている。違う世界の片りんを感じ取っているようだ。
中国人を前にして、同じ人間だと知ってはいても、そこに違う感触を味わい、言葉や意識の違いに出会っている。それはそれで、大事なことなのだ。
他者を同じ人間として尊重し合いながら、その違いも大切にすることは、特に僕らの日常の中で得られる経験としては大事なことだ。
違いを知る事、そして出来るなら相手の事も知ろうとするなら、そこから新しい関係が始まるだろう。
ただ、言葉というもののみを尺度とするならば、誤解だけでなくヘンテコな話の進展を見てしまう。
「早瀬さん親切ね。何か理由あるの?」江が突然問いかけてきた。
「君が僕たちと対等な立場にある訳ではないのに、対等な仕事をしなければならない訳で、そのギャップを埋めたいと考えているだけだ。」
江は掌を額に当てて、ふうんと考えている。
「別に変な下心がある訳じゃないよ。」
すると江は「下心」を口の中で繰り返している。この娘は何を誤解しているのだろう。


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