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死刑制度①被害者感情への過度な共感

殺人事件が起きた!

被害者のことを考えると身につまされる思いだ…

殺したやつはさっさと死刑にしちまえ!!

死刑を語るには

こんな思考停止というか無反省な考えが蔓延している。日本の中で大きなテーマであり、それなのに関心度が非常に低いのが、死刑制度だと思う。死刑制度は、(いま思いつく限りだと)憲法議論と肩を並べるくらい日本の土台的な要素と考えている。

お断りしておくと僕は、明確な死刑廃止派だ。論理的な根拠は少なからずあるが、「国という想像の共同的でしかありえない架空の存在ごときが、人の命を奪うという、そもそも偉そうな態度が気に食わない」という感覚的な部分によるところも大きい。

自分では無政府主義者(アナーキスト)ではないと思っている。当たり前に国の制度に頼って生きているし、帰属意識も愛着もあるが……すごく左寄りといわれればそれまでかもしれない。

残酷な殺人事件のニュースを聞いたらどう考える??

前提が長くなったが(特に右や左と思想主義的に別れるような事柄については、自分の立場を表明して論じるのがフェアだと思っているからだけど)、死刑制度存置派の根拠としてあげられる被害者感情について語りたい。

そもそも死刑制度について考えた人は少なく、死刑制度をあまり考えていない人は消極的存置の立場が多いように思う。死刑制度をめぐる世論や、感覚的な日本の捉え方はいずれ語ってみたい。

Aさん(30歳)は妻と子供の3人家族。Aさんが働いている間、育休中の家に男が郵便配達員を装ってドアを開けさせて家に押し入り、妻と子供を殺した。妻はレイプされて、泣きわめく1歳の子供はベランダから放り投げられた。
男はすぐに逮捕された。裁判を通じてその惨状が詳報されるにつれ、そして男がまったく反省や更生の意志を一切見せないことが明らかになっていく。

誰もが、このニュースに「自分が被害者だったら」などと心を寄せて、加害者への怒りを募らせ、多くの人は「この男を死刑にしろ」と思うかもしれない。

すごく正しい感情だな、と思う。僕もそう思う。

応報感情への過度な共感

死刑制度が続いている大きな根拠は、情緒的な部分でいえば、被害者の応報感情への大多数の国民の共感という部分が大きい気がしている。

つまり、被害者の感情をおさめて心穏やかに過ごしてもらうためには、不幸をもたらした男をまずは殺してしまうと、第三者が考えることだ。

確かに、自分の家族が殺されて、まったく反省していない加害者が20年か30年後に刑務所から出てきて、のうのうと生きているのが許せない。そう思う被害者の気持ちは、非当事者であり考えが浅い自分でも容易に想像がつく。

被害者が「加害者を死刑にしろ」というのは非常に自然な感情だと思うし、まったく否定するところではない。というかできないし、すべきでもない。もし自分の家族が殺されてしまったら、加害者を死刑にしてほしいと願う(と思う)。そして死刑制度の存置を願う(と思う)。

被害者感情を第一の根拠にするのは私刑じゃない?

こんな被害者の感情(主に応報感情)が投射されて、死刑を是とする空気が日本に根強くあるように思う。そして、世界的にマイノリティーとなりつつある「死刑」が残る・むしろ廃止が議論の俎上にまったくあがらない主な要因であるように思う。

でも考えてほしい。

被害者の男性が

「殺してしまった理由や感情を知りたい」

「死刑にせずに反省の言葉が聞きたい」

「殺さずに刑務所で一生反省して暮らせ」

「加害者が更生し、生涯を通して2人への罪を償ってほしい」

と死刑はやめてほしいと考えたらどうする? 

実際の被害者が死刑を望む人・望まない人の割合や、被害者が具体的にどう考えられるかはまったく分からない。

加害者を死刑にするか否かを被害者が決めていいのだろうか? もちろん応報感情をまったく無視しろとはいわないが、応報感情そのものを死刑の根拠にしてもいいのだろうか。

加害者が刑罰の多寡を決める。これは私刑(リンチ)にほかならない。法治国家の否定だ。もちろん心の中では反省していないのに反省する人もかなり出てくるような気がする。

それに思う。「死刑にした方が被害者遺族にとっていい」というのは、間違った、というか奢りすぎた他者への共感ではないだろうか。ましてや被害者の100%が死刑を願うとはいいきれないわけだし。

共感するのはいい、社会で生きていくにあたって共感(理論的には相手の気持ちを完全に投影できることはありえないので、共感は絶対不可能だけど)は健全な心の働きとして必要だと思う。

でも、第三者でしかない僕らが、被害者の応報感情にまで至って、死刑にしろというのは、健全な正義感なのかなと思う。

第三者として死刑制度を考える大切さ

僕ら(のほとんど)は今のところ、被害者でもなく、加害者でもない。被害者に共感してもいい(健全だ)。もちろん加害者の境遇や不幸、その理由を真剣に考えてもいい(これも健全だ)。しかし、どちらに対しても完全には理解できない。第三者でしかないという節度は忘れるべきではないと思う。

「加害者が死刑になった方が被害者の感情がおさまるだろう」と心のおさまり所まで決めつけてしまうのは、行き過ぎた正義感じゃないだろうか。

それが死刑制度を続かせる、あるいは議論すらできないくらい死刑を存置させる空気感をつくっているとしたら、本当に恐ろしいことだ。

行き過ぎた共感、あるいは正義感は、SNSをはじめとする過剰なバッシングなども引き起こす。いま社会で蔓延している嫌な空気の正体のひとつがそれと考えるけれど、その行きつく先に死刑制度は横たわっているのかもしれない。

考えたことがなかった人は、一度考えてみてほしい。

死刑制度を考えたい人は、死刑を過激に反対する辺見庸を一度は読んでみてほしい。