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学校の常識が世間の非常識である理由 – 校則編

「白いソックスをくべし」という校則は、どうでも良い問題ですが、社会のルールは如何にあるべきかというといに通じています。

 

校則問題

学校の非常識が顕在化するのが校則問題です。

家族としては子どもに恥ずかしい恰好をさせられません。
なので、家庭では服装に関して一定程度の教育はします。
制服が校則として決められているのであれば、それを受け入れ、子どもに着用させます。

しかし、校則でソックスの色が白に限定されていれば、
何故、白色なのか
という疑問は生じます。多くの家庭では、ソックスの色を指定するような家庭教育をしないと思います。

数年間も学校生活を送りながら、趣旨目的もわからず、白いソックスを履き続けて、ボーっと生きているならば、チコちゃんに怒られるぞ。

でも、チコちゃんは、たぶん、成り立ち(歴史)しか説明しないでしょう。

ここで議論をしているのは教育的意義です。

学校では「伝統だから」という説明をするかもしれませんが、これは「今までやってきたから」という意味であって、教育的意義ではなく、過去への執着であり未来志向ではありません。

何故、ソックスの色が白色でなければならないのでしょうか?

女子は、赤色も認めて欲しいと訴えてきます。どうでも良い問題ですけれども。

この「ソックスの色問題」は、規則のあり方を学ぶための、分かり易く無難な教材です。

 この疑問に学校側が明確に回答をすれば良いのですけれども、
回答が無い場合、学校の常識は世間の非常識
という感想を持つことになります。

教育機関であるにも関わらず、教育的意義の説明もなく、何故、子どもにやらせるのでしょうか?

仮に、趣旨目的の無い規則があったとしたら、それは何なのでしょうか。
独裁者である将軍様がお決めになった規則であれば、趣旨目的など意識することなく、ただ従うだけです。
民主主義社会における規則であれば、趣旨目的は必ず存在します。そして、それは公表されます。

校則は校長が定めることになっています(たぶん)。
なので、校則の趣旨目的が問われた場合、(一般教員ではなく)校長が回答しなければなりません。学校としての統一見解を述べる必要があります。

学校では子どもに「考えること」を教えます。
考えるには、思考の素材を学習済みであることが前提になります。この思考の素材を子どもは学習していないことが多いです。なので、思考の素材として、ソックスの色が白色でなければならない理由を教えなければなりません。
そうすることで、規則には趣旨目的があることを学びますし、複数の事例を学べば、それにならい、独自に規則を制定できるようになるかもしれません。

立法の精神を教えないのであれば、規則に従うだけの奴隷化教育をしていることになります。民主主義を教えるはずの学校が、全体主義を教えることに加担していることになるのです。

 一般社会においても同じです。
仕事ができる上司は、部下に対して、仕事の手順を教えるのですが、同時に、趣旨目的も教えます。そうすることで、部下はエラーへの対処の仕方を自分で考えることができる可能性が生まれます。
仕事ができない上司は、手順しか教えません。上司自身は、手順しか知らないし、そこにしか関心がありません。
ただし、部下が、アルバイトのような、成長することを期待していない者であれば、手順だけを教えることになります。

 

学習教材としての規則

制服の規則は、生活指導の一環として設けられている
というウワサがあります。
何故、ウワサなのか?
それは、この「ウワサ理論」を、匿名の一般教員がネットで説明していたからです。説明責任者である校長ではなく、匿名の者がネットで説明したのですから説明内容に真実性はありません。なので、ウワサです。でも、説得力はあります。

子どもは多様です。
諸般の事情により、規則というものを全く学習していない子どもがいる、ということです。

ソックスの色を白色にすることはどうでも良いことであることについて教師は承知の上で、「規則を守る」ということを学習させるために、敢えて(趣旨目的の無い)規則を設け守らせている、ということです。

校則は、学習用の規則だ、という説明です。

「情報」で使うプログラミング言語は学習用であって実務用ではないことや、学校英語は実用英語ではないということにも似ています。学習教材は分かり易さや安全性を考慮して設計されており、実用性は問われません。

校則は実社会用(本番用)ではなく子ども用の学習教材であるため趣旨目的はない、という論理です。

ただし、この「ウワサ理論」には留意すべき点があります。

実社会用ではなく学習用の規則なのですから、校則に違反した場合における罰則を設けることはできないと思います。違反した場合は、指導する、に留まらねばならないと思います。校則違反を理由に停学等の懲戒処分を下すことは不当である、という主張は成立すると思います。

また、この「ウワサ理論」を一般公開することにはタメライが生じます。この記事では学術を目的として記載しています。

偏差値を高くするためには、自己管理をしなければなりません。偏差値が高いことは、自己管理ができていることを示唆しています。偏差値が高い者は既に自己管理ができているため、規則を学習する道具である制服の着用を義務化する必要はない、と考えることができます。偏差値の高い学校には制服はありません。
自己管理ができていない子どもに対しては、ソックスの色指定を校則で決めることによって「規則を守る」ことを学習させるのです。偏差値の低い学校は制服を設けています。

1個のクラス内でも自己管理できている子どもとできていない子どもがいます。
できていない子どもに模範を示すため、できている子どもが制服を着用して見せる、ということになります。
制服を正しく着用した集団で取り囲むことで、同調圧力をかけ、規則に従わせるのです。
制服を正しく着用した生徒集団が教師の代理になっているのです。

このような教育システムは、これはこれで有用だと思います。
規則を守ることを学んでいない子どもに対して、どのように教育的な処遇をすれば良いのかは、みんなで考え取り組む必要があるように感じます。
それとも、生活指導担当の教師や専門家だけに任せれば良いのでしょうか。
この辺りは、どのような教育指導方針が良いのかは私にはわかりません。

規則を守れない子どもの教育のために、他の生徒全員が白いソックスを履かされていることが公表されると、この教育方針のあり方が生徒や保護者から問題視されるかもしれません。

模範の生徒自身の気持ちとしては、模範を示すために学校に通っているのではありません。その生徒自身の成長のために通っているのです。白いソックスを履くことによる、自身への教育的意義を聴きたいのです。

この「ウワサ理論」を正々堂々と公表・議論することにはタメライが出てきます。

でも、この「ウワサ理論」を公式に公表しないため、学校は、いつまでも、非常識呼ばわりされ続けることになります。
公表をしたら、したで、非常識呼ばわりされます。


論点

上記の論点は次のとおりです。

1.規則を守れない子どもがいるため、趣旨目的が不明であっても、校則を通じて「規則を守る」ことを学習させています。これで良いのでしょうか。

2.学習目的であるとしても、趣旨目的の無い規則の制定・運用は、民主主義に反しており、これを子どもが学習してしまうことは不当です。

3.規則を守れない一部の子どもの教育のために、他の全員にも不便な規則を適用するのは不適切です。

4.学校の常識が世間の非常識であると言われる原因は、学校側が趣旨説明をしていないからです。手順の教育と同時に、趣旨目的も教育すれば良いのです。


考察

海外と比較した場合、日本人は、趣旨目的に共感するのではなく、「みんながやっているから」という理由で規則に従う、というウワサがあります。

この行動様式の根源は学校教育にあります。

校則は、規則というものを学習していない子どもを、規則に従わせることに効果があるように感じます。

教育資源が少ないことが原因で、教育が困難な状況であれば、集団圧力を教育目的に利用せざるを得ないでしょう。

ただし、それとのトレードオフとして、学校では、民主主義の教育はできていません。

昨今では、発達障害に関する知見の蓄積やスクールカウンセラー等の専門家の登場など、教育のあり方が前進したと思われます。

科学的・合理的に教育技法が進化発展し、教育現場に適用されることを期待します。


おわりに

東大阪市では「ラグビーのまち」というプロパガンダによってラグビーを流行はやらせようとしています。しかし、このことは、市民の多様性を無視しており、民主主義に反しています。

ラグビー愛好者の常識は、その他一般市民の非常識です。

ラグビーのことなどは、どうでも良い、と考えてはいけません。

「白いソックス問題」と同じように、民主主義の根本問題です。 

以上

#学校教育 #校則 #民主主義