人の観点は家族でも相違があるのは当然だからこそ、 違いを受け入れ、言葉で歩み寄っていく

人によって言葉の取り扱い方は違う。

話しながら頭の中の情報を整理する人

生命を生み出すように時間をかけて言葉を発言する人。

物の捉え方も言語で理解するのか、
またはイメージ、
雰囲気、経験、データによって解釈していくのか
人によって本当に様々な反応がある。

小さい頃に家族から
あなたの言っている事がよく分からない、と
よく言われた。
いつもメタファーを使って
何々の様な、まるで。。

とかイメージから説明する私。
それが私の一生懸命伝えるやり方、
言葉の使い方だった。

家族には私の言葉が通じない、と思い
私はその時から言葉から逃げた。
そして非言語の絵やダンスの世界に自分の居場所を発見していった。

だけど言葉から逃げれば逃げるほど言葉は
雪だるま式になってゴロゴロ追いかけてくる。

さらに
異国の地フランスで、
ダンスの世界で存在するには
自分の意見を述べることは必須。

ダンス作品の言語化。


何を思いどんな意図でそれを発信し
社会的に、今の時代にそれはどんなインパクトを
与えるのか、などダンスの振り付けの世界でも
身体の表現以上に 作品の言語化が重要視される。

その後ダンスの先生になり
運動機能の講座で受容体のクラスがあり人の空間に対しての
レセプターは千差万別ということを知った。

友人がスイスで脳のモーターシステムと行動学
を学びに行った後に
家族という共同体の中でも
それぞれ違う物の捉え方をする、
と教えてくれた。

それは私の小さい頃に受けた家族からの印象、
誰も私を理解してくれない、という勘違いを
癒してくれた。


言わないでも分かってくれていると思っていた。
それは大きな甘えで
相手から言ってることが分からない、と言われたら
相手が理解できる言葉の選択をすればよかった。

小さい頃は伝えるのに一生懸命で
なんで分かってくれないんだろう、分からない奴が悪い、
と思っていたけれど、
人の観点は家族でも相違があるのは当然だからこそ、
違いを知り
言葉で歩み寄って事が
本当に大切だな、と動画を創りながら思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?