見出し画像

復興と女性(いなかったことにされないために)

ここのところ、ジェンダー問題への言及を増やしている。大きかったのは、『こころと文化』に寄稿した論文で、福島事故後の復旧過程におけるジェンダー問題を考察してみたことだ。

自分でも考察してみて驚いたが、復興のプロセスにおいて、女性の存在(活躍)が「なかったこと」にされていく動きが鮮明に浮かび上がってきた。そして、このまま黙っていたならば、まちがいなく私もいなかったことにされるのだろう、と確信を抱くことになった。

思い当たる節はいくつもある。

私は、女性ではあるが、ジェンダー規範として割り当てられている「ケアする女性」としての役割を踏み越えた動きもしてきた。ダイアログの運営もそうであるし、言論活動もそうだ。だが、報道のなかで言論にまつわる部分は、自分がすーっと避けられている、という印象をずっと抱いていた。

今回、処理水についてダイアログを開いたのだが、私は、処理水についての論考をいくつかこれまでに発表している。

この論考は、奇をてらったような主張ではないものの、読んでみればなるほど確かにと思ってもらえる程度に論旨は整理されており、私以外には書けないオリジナリティもあるものだと自己評価をしている。公開当時、一般からの注目度は別にせよ、この問題を注視していた報道関係者からの注目度は高く、また非常に好評だった。その後の処理水問題の報じられ方を見ると、かなり参考にされたのではないかと思う。

とあるネットメディアで処理水をめぐる動きについて、明らかに、上記の私の論考の筋立てをそのまま参照したのであろう、という特集が組まれていた。担当した記者さん(男性)は、私のTwitterアカウントをフォローしており、また論考を読んだ、とのコメントももらっているので、実際に参考にはしたのだろう。それは別に問題とは思わないし、大いに参考にしてもらえばいいと思う。

だが、問題は。その特集記事のなかで、コメントを求められていた「有識者」は、男性2名(研究者と地元)だったことだ。私の論考を大いに参照しながら、なぜコメントを求めるのは男性2名なのか、その当時も疑問に思ったが、やはりそうなのだ、と得心をしもした。ちなみに、私の論考を参照したことにも、まったく触れられいなかった。

それまでもそうであったが、女性は「ケアする役割」「苦しむ役割」以外の社会的な立ち位置からの発言を求められていない、ということは、ずっと感じていた。これがおそらく、「ママとして」「ケアする女性として」「放射能を恐れる」「被害に苦しむ」という発言の仕方であれば、多く注目を集めたのであろう。だが、私は子供がいないこともあるし、また、自分の性別を強調した発信のしかたは行わなかった。そうすると、すーっと避けられていく感覚があり、なるほど、この問題に女性に社会的発言は求められていないのだ、とはよく感じてきた。

件のネットメディアの記事は、ジェンダー規範に則った役割以外の女性の存在は、こんなふうに、そもそも「なかったこと」にされていくんだろうなということを実感した経験だった。女性がいなかったことにされた後の空白には、男性二人が「有識者」としての役割を与えられたように、男性がその位置を占めることになり、やがて、その成果そのものが男性のものと認識されるようになるのだろう。

結局、黙っていても、私も、多くの女性がそうであったようにいなかったことにされるだけだ。女性が黙っていて、男性と同じように評価してもらえる社会ではない。いまははっきりとそう確信している。


気に入られましたら、サポートをお願いします。