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まざりのいた頃 -いつも そばに ねき がいた

子供のころ、猫を飼っていた。
最初は、母が知り合いから1匹の雄猫をもらってきたことがはじまりだった。その雄猫は、当時流行だった「アメリカンショートヘア」という種類に似ていて、シルバーの模様に、ふわふわした毛並みがしゃれていた。
私は小学校高学年くらいだったろうか。猫は好きだったので、素敵な毛模様の猫が来たことがとてもうれしかった。

雄猫がうちに来てしばらく経つと、「友達」を連れてくるようになった。母が、ガレージに、変な模様の猫がいるという。顔がどこにあるのかもわからない。もしかすると、顔になにか病気があるのかもしれない。なのに、雄猫はその「友達」に餌をわけてやっているというのだ。

注意してみていると、確かにガレージに黒茶色の毛模様の生き物がいる。成猫と言うには体が小さい。痩せて、黒にいろんな模様が入り交じった毛模様で、確かにどこが目でどこが鼻なのかもわからない。人間の姿を見つけると、全力で走り出してどこかに逃げ込んでしまって、姿をなかなか見せようとしないから、顔をよく見ることもできない。けれど、病気なら、うちの飼い猫にうつってしまうかもしれない。

母は、ひと思案して、餌で手懐けることにしたようだ。毎日、台所のすぐ脇にあるガレージで餌を与えた。最初は、警戒しながら近寄ってきて、餌だけ食べると走って逃げ出していたが、だんだん心を許すようになったのか、そのうち人の姿を見ても逃げ出さなくなり、ついには、家のなかに入って餌を食べるようになった。

観察できるようになってから、顔を眺めてみると、なにか病気や変形があるわけではなかった。黒に三毛や虎やぶちやいろんな模様がまじっていて、どこに目があるやら、鼻があるやら、よくよく見つめなければわからないだけだった。母は、その猫に「まざり」と名付けた。その言葉どおり、形容しがたいほどに、模様がまじっていたからだ。先に来ていたアメリカンショートヘアとは対照的に、誰が見ても「変な模様だね」「ぶさいくちゃんだね」と言う不格好な模様だった。

もともと飼っていた雄猫のアメリカンショートヘアは、まざりが家にいつくのと入れ替わるように、家を空けがちになり、その間隔が少しずつ長くなり、最初は数日、やがて1週間、2週間、一ヶ月、数ヶ月と間が空いて、ついに帰ってこなくなってしまった。見た目のよい猫なので、もっとかわいがってくれる家を見つけたのかもしれない。

代わりに居着いたまざりは、とても臆病だった。家族にはなついたものの、見知らぬ人が家のなかに遊びに来ようものなら、野良猫時代にそうだったように、脱兎のごとく二階の押し入れの奥に逃げ込んで、ぶるぶると震え、客人が姿を消すまで、決して出てこようとはしなかった。

賢いところもあって、食卓に上って食べ物をとったり、粗相をしたりすることはなかった。刺身が大好きで、夕食のついでに一切れわけてやると、目に涙を浮かべて食べていた。(興奮すると猫も目に涙を浮かべるのだ。) 一度でも嫌な思いをした場所には決して近づかず、だから、いちど、むりやり体を洗ってやったお風呂場は大嫌いで、わずかでも近づけようとすると、全身の毛を逆立てて抵抗した。

その当時は、飼い猫に不妊手術をすることが、ようやく一般に広がりはじめていた時期で、まだそうしない家も多かった。わが家もそうだった。まざりは雌猫だった。気がついたら、おなかが大きくなって、押し入れで子猫を産んでいた。小さな鳴き声がすると思って覗いてみると、まざりのおなかに小さな子猫が5匹すがりついていた。母猫らしく、まざりは人間が子猫を見るのを嫌がり、私たちが見ていると、いつの間にか子猫を別の押し入れに移動させていた。

子猫はかわいかった。とは言っても、狭い家で、5匹もの子猫を飼うわけにはいかない。友人・知人に声をかけて、何回かは引き取ってもらうことができた。それも、二回、三回と重なると、そうは行かなくなる。母が知り合いから、ペットショップで餌代がわりのお金を渡し、一定期間預けているうちに、飼い主を見つけるサービスをしているところがある、と聞いてきた。1週間の間に、引き取り手が見つからなかったら、飼い主に戻される。それを何回か利用した。

私たち子供たちは、子猫が生まれて引き取り手を探さなくてはならないのが不憫で、動物病院でまざりに不妊手術を受けさせてもらうように、何度となく母に頼んだ。ついには、手術代に充ててもらうように自分のお年玉を手渡した。けれど、母はのんきだった。

まざりが何回目かの子猫を産んだ。1匹はもらい手が見つかった。残った子猫は、これまでと同じように、ペットショップに預けて、3匹はもらわれていったようだ。1匹だけ、どうにも見た目の悪い子猫だけは引き取り手が見つからず、うちに戻ってきてしまった。

引き取りにいった時、子猫は怯えきっていた。迎えに行った私たちに飛びついて、そのまま家に連れて帰った。家で少し安心したのかもしれない。あとから思い返せば、もともと2匹いた猫が1匹になっていたのだから、もう1匹飼ったところでどうということはなかった。なぜその子猫を家に置いてやらなかったのかは、よくわからない。その子猫は、保健所の引き取り日にいなくなっていた。

さすがに母も気が咎めたのか、この後すぐに、まざりを動物病院に連れて行き、そのあと、子猫が生まれることはなくなった。もうあんなかわいそうなことをしなくて済む、と心からほっとした。

まざりが死んだのは、私が大学に入って家を離れてから何年か経った時だった。元気がない様子なので、動物病院に連れて行ったところ、ウィルス性の白血病にかかっていた。子猫の時から感染していたのではないか、と獣医は言ったそうだ。打つ手はないと言われ、そのまま自宅に連れ帰ってきた。

とても臆病な猫で、家の敷地の外に出かけることもあまりなく、そんな体調であるにもかかわらず、そのすぐ後に、姿が見えなくなった。数日後、最初にやってきたときと同じように、ガレージから姿を見せた。よろめいた足取りで、ようやく歩いて、家の方に向かってきた。母が抱きかかえて家に入れ、食事を与えると、水だけを一口か二口、口に入れた。そして、そのまま、自分の寝床にしていた場所に身を横たえた。

その晩は、そのまま過ぎ、朝、母が様子を見ると、息絶えていた。

まざりの亡骸は、家のすぐ脇を通っていた単線電車の線路脇に埋めた。当時はまだ牧歌的で、線路に沿った鉄道会社の敷地を、自分の花壇代わりに好きに使うことも黙認されていた。線路脇は、隣家のお年寄りが花をたくさん植えていて、いつも季節の花がなにかしら咲いていた。そのすぐ隣の空いているスペースをまざりの墓にした。そうすれば、お墓参りをしなくても、いつでもまざりのお墓のまわりはお花でいっぱいだから。

夏休みに帰省したときに、まざりの墓を見た。あたりの小石を並べて、そこがお墓であることがかろうじてわかるようになっていた。直に、あたりの草にまぎれて、わからなくなってしまうだろう。

カタン、カタタン、カタン、カタタン……

電車がとおるたびに、季節の花が揺れる。まざりはその下に眠っている。電車の音を聞きながら、私は思っていた。自分が猫を飼うことになったら、うんと大切にしてやろう。かなしい思いは少しもさせないで、最後まできっとかわいがるんだ。

やがて、鉄道会社は敷地の入り口に柵を設け、出入りできなくなった。花壇を育てていた隣家のお年寄りも亡くなった。母も死んだ。自宅は立て替えられ、まざりの歩いたガレージもなくなった。電車のとおる音だけがかつてと同じように響く。

カタン、カタタン、カタン、カタタン……

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