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短編「くだらないこと」

 ちょっとだけ声聞かせてとか、おやすみだけ言わせてとか
そういうことができない人間 is わたし

 一時間ほどの通話時間が書かれたLINE電話のスクリーンショットに文字をあしらい、Instagramのストーリーにあげ、投稿されたことを確認してからスマホを放り、自身もベッドに身を投げる。

ああ、くだらない。

ちょうど八年前、留学先のタイで出会った「SNSは一切しない」と公言する同い年の日本人のことを思い出す。ちょっと見せてと言われて見せたわたしのスマホの画面をのぞいた彼女は、「Instagramってそんなくだらないこと投稿していいんだ」と新鮮に驚いた。あの時は確か、お気に入りの「星の王子さま」のデザインのペンケースと、一生懸命練習したタイ語の勉強用のノート、それから、タイに留学してから最近やっと一人で注文できるようになったチャイェンと言われる甘いタイミルクティーの写真を投稿していたと思う。悪意のない「そんなくだらないこと」という言葉は、悪意がないからこそ余計に耳の奥底に深く刺さって頭の中に重く沈殿し、「くだらないこと」をするたびに、頭の中に重たい澱がぐわん、ぐわん、と舞い上がるようになった。

 くだらない。毎日、くだらないことに時間を費やしていると思う。言い出したらきりがないけれど、仕事に行くのだって、そのために一生懸命化粧をするのだって、同僚とのランチだって、言ってしまえば全てくだらない。ストーリーにわざわざ彼との通話時間を載せて安心するのだって、あの彼女に言わせれば「くだらない」の最たるものかもしれない。

 それでも、と思う。「くだらない」という声が頭の中に響いてもなおその「くだらない」行為をするのはどうしたって生きるためで、でも生きることは、じゃあ、くだらなくないのかと言えばそんなことは当然なく、生まれてから死ぬまでにはきっとほとんどくだらないことしかなく、喜びも悲しみも怒りも後悔も、そうした感情を生むあらゆる出来事もすべてくだらないに違いないのだからどうしようもないのだ。強いて言えば、「くだらない」という言葉が一番、この世でくだらないのだと思う。

 この思考そのものがくだらないかもしれなくても。

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