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「さみしい」のそばにいる
ちょっとtwitterでも触れたのですが、先日ワクチンの二回目を打ちました。その関係で翌々日までお休みをいただきましたが、二日目~三日目にかけて発熱がずっとありました。
普段は熱をほとんど出さないので、久しぶりの高熱。ただ昔同じくらい出したときほど身体はしんどさをあまり感じなかったので、病気の熱とは違うものなのかなあとも思いつつ、家で養生しておりました。
こんこんと眠る、というわけにもいかず、頭痛の中でぼんやりベッドに寝転がって時間を過ごします。時間は遅々として進まず、早く熱が下がってほしいなあ、と天井を見つめながら、部屋の中に差し込む光が段々と弱くなってゆくのを感じました。
ノスタルジーともまた違うように思いますが、暗くなり始めたたそがれ時の部屋の中一人きりであることが、妙に寂しく感じます。普段なら何も感じないはずの時間、ほのかに暗くなっていく、一日が終わっていく時間。
なんだかわけもなく一人ぼっちのような気がする。寂しいなあ、と言葉にして思います。
めちゃくちゃ気持ちが弱っている……!
病は気から、と言いますが気は病から、とも言える。
身体の調子が悪い時、どこかおおきなけがをしたとき、気持ちがつらいほうへ引っ張られてしまうことは当たり前なのだな、と身をもって実感しました。
寂しいことは、居心地がよいものではありません。体調も悪いし、その上おまけにこんな苦しい気持ちを抱えるなんてたまったもんじゃない。
でも、このさみしさに少しだけ付き合ってみよう、と思いました。
何でわたしは一人ぼっちだと思ったのだろう。今この瞬間、物理的にはそうかもしれないけれど、家にこの時間一人でいることなんて日常のことなのに。
寂しさにまかせて誰かに甘えたり、そのさみしさを埋めるために衝動的に動くことも、もちろん出来たかもしれません。まああの熱ではたぶん無理でしょうが……それでも。
病気のときだけではありません。傷ついたり、苦しいことがあって、疲れたなあ、しんどいなあ、さみしいなあ、誰かにそばにいてほしいなあ。
頑張っていればいるだけそういう気持ちになることはあることだと思います。そのときに、私たちはそのさみしさとどう付き合っていますか。
誰かに話を聞いてもらったり、ツイッターで呟いてみたり、美味しいものを好きなだけ食べたり、何はともあれ眠ったり。寂しさを解消する方向に動いてみる。そうして寂しさを小さくしていく。
すぐに、そうできてしまう環境がある。それはとても幸福なこと。
ですが、熱を出した私は思いました。今日は、少し抱えてみよう。
誰かにそばにいてほしいようなこのさみしさは、誰かと一緒じゃなくても抱えきれそうな気がしたのです。
不安、つらさ、苦しさ。
そういうものはすぐに手放したくてうずうずしてしまうけど、そういう感情を抱えてなんとかやっていくための力というものも私たちには必要だなと感じます。人は一人で生きていけないけれど、一人でどうにかしなければならないことも、誰とも分かち合えなくて余計に寂しくなることもあるから。
自分は抱え込みすぎだ。
自分は手放しすぎだ。
いろんな人がいると思います。一秒だって抱えていられない人もいれば、まだまだ大丈夫、と我慢をしすぎて限界になってしまう人も。
何もかもバランス。「こういう風にしましょう」と一概に、一言で言うことはできません。それはこれを読んでくださっている方にとても不誠実なことだなと思います。言い切ってしまえば誰だって気持ちよいのですが。
あなたはどうでしょうか。
寂しさにひたる、というよりも、そばにいる。
それくらいの距離感でじっと座って、ただ寂しいな、誰かが恋しいな、人と一緒にいたいな、そう思いながら、自分の寂しさの正体と一緒にいてみる。
時にはとことん、自分で付き合う時間も大切かもしれません。
末筆になりますが副反応はめちゃくちゃしんどかったので、もしこれから接種される方がいらっしゃいましたら、どうぞご無理なく、たっぷり休養を取ってくださいね。
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