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アンカバーリングヴォイス体験期

初めて目にする言葉という方も多いんじゃないかしら。
コロナ騒ぎの前に出会った療法の一つで、シュタイナー教育理論に基づく、声を出すことを通して本来の自分に還っていくワーク。
どうしてそこに辿り着いたのかも忘れてしまったけれど、大学時代に少しだけ触れたシュタイナー教育論がとても好きで、本も何冊か読んだ。
まだ読み切っていないのも二冊ほどある。

初めてアンカバーリングに参加した時は、最初は「幼稚園児対象の遊びかな?」という間違った認識だった。
衝撃だったのは、みんなが円の中心に向かって一緒に歌った時と、目を閉じて背中合わせになって歌った時!
全く違う繊細な音に変わったのだった。
もちろん、背中合わせで歌った時にね。
人間は目と耳に頼って音を聞いているつもりになっているんだ。
背中合わせで聞く時は、皮膚が聴覚の役割を果たしていた。
いや、、、元々皮膚は音を聞いているのかもしれない。

その時出会った平井久仁子先生は「アトリエカンテレ」を主宰され、個人がかかえる様々なテーマを声を通して明らかにし、癒してくださる。

三年ぶりの再会はonlineだった。
私のテーマは脱力とあるがまま(自然体)
今日も演出しすぎの演技をして、「もっと自然体の美果さんでやってみて」と指導を受けた。言い訳ではないが、私はわざとそうした。そうじゃなくもできると知ったからだ。力む方と脱力を自分で演じ分けてみただけだよ、先生。←生意気
それができたのは昨日の平井先生のワークのおかげ。

先生は決して指導のようなことを優先しない。
最初の瞑想で、
それは、ただただあるがままの自分をかんじるだけのものだったが
体の不調があったとしても、どこかに痛みや違和感があったとしても、原因を探ったりせず、ただ、そのまま感じて。感じ流だけでいい。
そうおっしゃった。
その時、私は痛いところもなかったし、不調もなかったはずなのに、「そのまま感じて」と言われた途端に涙が止まらなくなったのだった。

そのまま、あるがまま。。。
その言葉に体ではなく心が反応したのだろう。

体は知っているんですよ。心と体と技術は三つがバランス良く機能して初めて最高のパフォーマンスをすることができます。
と、先生は続けられた。

体を緩めて声を出すことで少しずつ解放されていき、
感じること、日常生活の中で思い当たることなどをポツポツと語っていくうちに、気づいていなかった、あるいは気づかぬふりをしていたことが体という入れ物に不自然に溜まっていることを思い知らされた。
体は心以上に繊細なのだ。
切り倒してしまったヒマラヤシーダー。
その後に芽を出し、ぐんぐん育つ若い白樺。
それが心に浮かぶということは、それが問題のあるいはあなた自身のメタファーなんでしょう。

友達や夫ではなく、第三者の目でみて感じてくれる人とゆっくりと心と体をほぐしながら語り合うことがひつようだったのだ。
語り合うことで気づく。。。これはマヤの学びによく似ている。
シュタイナーと古代マヤ暦。
私の好奇心がまた疼き出した。

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