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グリーンサムを持つ人

モアンドロン・マチュ監督とオール東北のキャスト、クリエイターで完成させた短編映画「YORIKO」は、2022年7月27日に仙台市のせんだいメディアテークで上映会が行われました。
私はご縁があってこの映画に少しだけ出演させていただきました。
その後、この映画はTokyo film award2022にてsilver winnerを受賞し、さらに
CANNES WORLD FILM FESTIVAL ベストインディショートフィルムのカテゴリーでなんと、第一位に選ばれました。
感激です。
この映画はコロナ禍で大事な人と行き来ができない現代に大きな問題を投げかけています。認知症の女性の1日をさまざまな角度で描写しています。素晴らしい作品でした。上映会で初めて完成作品を見させていただいた時は、ボロボロ泣いてしまいました。

私は、認知症の女性ヨリコの娘、ユキコを演じました。
オーデションで要求されたことはとても難しかったのですが、
実は、私は20年ほど前に認知症を患った末に亡くなった母を思い出していました。

当時は認知症という言葉もなく、ボケ老人とか、痴呆症と呼んでいました。
小学校6年生の時に父に死なれてから、母一人子一人で生きてきた私にとって、母は厳しく温かい存在でもありましたが、いつも肩肘張って力んでいたように思えました。
その母が妄想の中で何を見ているのか、恐ろしくおぞましい時期が長く続きました。
はじめはちょっとした違和感。
門柱が誰か心無い人によって削られてしまった。とか
せっかく挿木して育てた花を持って行った人がいる。など。

離れて暮らしていましたし、私も日々の暮らしに追われてめったに訪問せずにいましたから、その変化に気づくことなく、倒れて入院したと隣家の方から連絡を受けて駆けつけて愕然としました。
入院先の病院では、すぐに呼び出されたので、重篤な病が見つかったのかと思い「どこが悪いんですか?」と尋ねると「お母さん、精神科で診てもらった方がいいですよ。」という思いもしない一言が返ってきました。

その後、母は自ら望んで県南の山奥の老人ホームに入居して新たな人生を生きようとしましたが、もともと他人と協調して生きることが苦手な母でしたから、一年後にはそこを出て、私の家の近くの市営住宅に引っ越しました。
ヘルパーさんを頼んで、定期的に精神科に通わせたり、身の回りのことをしてもらったり、時には症状が悪化して精神科に入院したりと、最後の5年は人生で最悪だったことでしょう。

そんな母を私はずっと疎ましく、おぞましく、「見たくないもの」として扱ってきました。酷い娘ですよね。

私が植物を好きなのは母の影響です。
グリーンサム(緑のゆび)を持つ人は、魔法のように植物を元気にして、美しい花を咲かせる力があるといいます。
そう、まさしく母はグリーンサムを持つ人でした。
と、言っても立派な庭があったわけではありません。質素に一人暮らしをしていましたから、年に数回、オリズルランやシャコバサボテンの小さな鉢植えを求めては縁側に並べている程度でした。
でも、たまに立ち寄るといつのまにか2鉢3鉢と増えているのです。
挿木したり、株分けしたりして少しずつ増やしていたのでしょう。
選んだ植物が育てやすいものだったのかもしれませんが、枯らしてしまったのを見たことがありません。

そんな母が「挿木して育てた花を誰かが盗んで行った。」と訴えたのは、今にして思えば、「私のグリーンサムの魔法の力が無くなってしまった!」という叫びだったのかもしれません。
過去と現在を行き来しながら、母はだんだん私がわからなくなっていきました。それでもふと母に戻る瞬間は、
「おや、帰ってきたのか?寒かったろう。こたつにあたれ。」と、自分のベッドの布団をめくって私を中に入れようとしたり
自分の食事の手を止めて、「私はもういいから。お前は食べたのか?風呂には入ったのか?」と気遣ったりしてくれました。

母が亡くなって、住宅を片付けにいくと、がらんと殺風景な部屋には不似合いな
真っ赤なゼラニウムが咲いていました。
咲いたことを喜んでくれる人の居ないその部屋で、「見て!私、また綺麗に咲いたでしょう。」と、叫んでいるようでした。
それを見た時、悲しいというより怖いと思いました。
母の狂気を赤いゼラニウムが全部吸い取ったかのように思えたのです。
でも、その花のおかげで母はもう一度グリーンサムを取り戻して天国に旅立ったようにも思えました。

映画ヨリコに出演できたことは母の導きだと思います。
母に優しくできなかった私は、映画の中で母に許してもらえたと信じたい。

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