26歳の夏、休まらず
誰かにとって自分は本当に必要なのか、鬱屈となるだけの無駄なことをたまに思う。
自分が必要とされているなんて大層なことを普段から思っているわけではないが、自分の存在価値を問うてしまう。誰しも一度は考えたことがあるだろう。
職場でも恋愛でも、私の代わりなんて正直いくらでもいる。私が仕事を辞めたら別の人が入社するだけ、恋人と別れたら彼女は別の人と幸せになるだけ。
ただ、それだけなのだ。
自分の必要性、生きている意味、なんていくら探したって「親を悲しませない」くらいしか思い浮かばないし考えたって仕方がないことは重々承知しているつもり。また、自信がないから“つもり”というワードを乱用。良くないよ。
親を悲しませないという思いが軸にある自分、偉すぎ(戯言)。
私はもう26歳。
神聖かまってちゃんの22歳の夏休みを聴いていた頃、26歳なんて一生来ないのではないかと思っていた。それほどまでに遠い未来の話だった。
33歳がもう遠くないすぐ先の話になった。
いつまで拾い集めていれば報われるのだろうか。
その頃にはもう手放し始めているのではないかという恐怖と不安の波が夜な夜な焦燥感と共に押し寄せてくる。
“報われる”とはいつと比べてなのだろう。
自問自答を繰り返しても人生のピークなんて見当たらない。たとえあったとしても自らそれを断絶し可哀想(笑)な今に焦点を当ててしまうのだろう。
誰か救ってはくれないか。
そんなことさえ他人に頼る様は目も当てられないな。
虚妄を彷徨うしか幸せを感じられない人生に果たして意味はあるのか。そもそも人生自体、意味があるものなのか。生きて死にその後どうなる。どういう目論見があってこうも消費しているのだろうか。
また意味を問うてしまった。
機嫌の悪い先輩「少しは自分で考えたらどう?(怒)」
理解しているはずが、こうも間髪入れずに模索する人生。
今日を越えてくる明日に少しだけ酔って、縋って、理想を押し付ける日々。
「「明日には」」
今日も太陽だけはギラついている。
燦々としやがって、むかつくぜ。
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