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池田晶子「41歳からの哲学」

池田晶子(1960~2007) 哲学者、文筆家。

著書「14歳からの哲学」「考える日々」
「帰ってきたソクラテス」等。

以前「14歳からの哲学」
という本が話題になった。考えること。

私とは何か、何かと考えているこれはまた何か。

ひたすらに考え続け
やがて宇宙空間にまで身をはせる著者。

”池田晶子をやっているこの感じ“

46歳という若さでこの世を去った
筆者の最期の言葉。

"さて死んだのは誰なのか"

人生の目的は魂の世話をすることである
             ソクラテス


池田晶子の文章は、何度読んでも新鮮だ。

彼女が魂について思索する時、
難解な文章の中にもすっと落ちる瞬間がある。

筆者のいう、縦に入るとはこのことか?

そうだったのかではなく
それをすで知っていた、既知感という感覚。
腑に落ちるとか目から鱗とか
あるいはそれよりももっと
存在の深い部分での共鳴。

専門用語もカタカナ用語も使わず
子供にも分かるような優しい言葉で
丁寧に話せる賢人は、尊敬に値する。

ただ、賢人としてのストッパーが外れて
うっかり本気を出されると
難解すぎてもう何を言っているのか
全く分からなくなる。

生まれ持った頭の出来は
残念ながらあるな、と感じる瞬間。

池田晶子の場合
初めは凡人にも分かりやすく
書いているのだが、つい熱くなって
普段の思考回路がそのまま文章に出てしまう。

読んでいる方は、え、ちょっと待って
となるのだが、そういうところに
筆者の自分自身への誠実さを感じ取れる。

「魂とは何か」、「私とは何か」などの
著書に比べて「41歳からの哲学」は、
全体的に分かりやすい文章で綴られている。

人生の折り返し地点に来た時
生まれてからずっと
確実に進行していたものが

少しずつやがてはっきりと姿を表す。

老いていくということ。

40代という節目は
女性にとって、否が応でも
意識の変革を迫られる時期である。

しかも、そこから先が気が遠くなる程長い。
人生100歳時代だとか。

どうすりゃいい?


「夢の安楽死病院ー老い」

いったいどうするつもりなのだろう(略)
平均寿命をこれより延ばして
それでどうするつもりなのであろう。

かつて、平均寿命五十の時に
八十まで生きる人は珍しかった。
その為、長老はめでたい存在だった。

めでたがれる自覚を持った老人は
自ずと後進に範を垂れる智恵者
賢人として、それに見合う振る舞いをする。

現代においてそのような賢い老人は稀である。

老いることを否定的に捉える時代風潮。
人生の価値を、快楽にあると思う人は
老いることを恐れる。

若さという価値観しか持たず
語るべき知恵を持たない。
ただ歳を取っただけの無内容な人。
敗北者。周囲からは尊敬されずに疎まれる。 

確かに、テクノロジーの飛躍的な進化で
世代間の生活様式や、価値観というものに
これほど隔離が生まれた時代はなかったか
もしれない。

それでも人間の業、精神など
ソクラテスの時代から普遍的なものはある。

各種健康法にいそしみ、海外旅行を満喫し
まだまだ若いと自慢げに語る老人が
人生のどんな知恵を語れるのだろう。

いきなり40代から老人に話が飛んでしまったが

これを踏まえた上での次の一節。


「アンチエイジンクでサルになる」

抗加齢、抗老化、老いることに抗う。
それでもどうしても抗いきれない部分を
「成熟」と苦し紛れに言い換える。

女性雑誌や化粧品の宣伝文句によくある
「成熟した女は美しい」
老いたいのか、老いたくないのか
どちらなのか。

このくだり
何度読んでも、半ば自虐的に笑ってしまう。

筆者はそれを無用の恐怖という。

なぜならそれはあくまでも自然現象で
こちら側の願望とは、無関係な事実だから。

又、老いへの恐怖は死の恐怖とは別物だとも。

老いへの恐怖は若さへの執着。
快楽や娯楽の追求に不可欠な若さを失うこと。

人生の意味はそれしか意味がないと思っている。

楽しむだけ楽しんで死ぬ、ピンピンコロリ
という合言葉に浅ましさを感じる筆者。

若さに執着し、無内容のまま年老いた人を
老醜という。


ふぅっ、と溜め息が出る。手厳しいがなんとも心地よい。

自分の人生を思索し、
思索の深みにどれだけ遊べるか。
存在と時間、時間の時熟。
自分の人生を歴史として味わえる成熟。

それにしても
46歳で早逝した彼女が今生きていたら59歳。
70歳、80歳になった池田晶子の言葉を聞きたかった。


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