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「学歴が人生を救う」と言った君へ


いつかの帰り道、2人で共テの話をしてて、私が3教科しか受験しないけど 国公立大学に行く(*3教科受験は基本私立になるのです)と言ったとき、あなたは「まあでも、旧帝大よりは(偏差値が低くなる)ねえ…」と言った。
そしてそのあと、「学歴は人生を救うと思っている。」と。

このとき、私は2つのことを思いました。
1つ目は、こんな失言をするくらいあなたは自分を追い込んで勉強していて、そしてうちの高校の生徒は特に、全国的にも受験生はそういうものなのだろうということ。
あなたはこの話をした後に、自ら「この話やめよか」と言ってきました。
自分の発言に多少申し訳なさを感じたのでしょう。 向こうから話振ってきたんだけどなぁ笑

普段の行動や性格を全部ではないけど知ってるつもりだから、悪気があって言ったことではないのはよく分かっている。だからこのことに関して 私は一切怒ってないし、深く傷付いてもいないです。

これは2つ目の感じたことに繋がってきますが、私があなたの発言に対して深く傷付かなかったのはこれまでの自身の経験、人との出会いがあったからなのです。
それがクッションとなって、あなたの放った言葉の矢が私の心に直接は刺さらなかった。



「学歴が人生を救う」これはもちろん間違いではありません。
学力は大事です。
偏差値の高い大学を出ていれば、 日本では生きていけます。

でも、私は学力より人間性 素直さであったり信頼できる人と出会うことの方が、人生において何倍も大事だと思っているのです。

今までこれは、所詮机上の空論なのかな、とどこかで思ってました。
けれど、「豊かな人間」に私はこれまで何度も出会ってきました。

例えば私は大学受験において、合格したら大学入学までの半年間で、自身の作った計画書に基づいた活動をすることができるという入試方式での受験をしました。まあ結果だけを言うと不合格なんだけれども。

私の計画について詳しく言うと、日が暮れ夜が明けるので割愛するけれど、私は「(人と、自然と)共に生きる」ことを今のところ生涯のテーマとしている。
自然の循環の輪からはみ出さず、いわゆる「群衆の中の孤独」ではなく相互に支えながら生きる人と関わることで、人と自然との共生について正面から向き合いたいと考えた。
そのためギャップイヤーの活動の1つに自給自足の生活を送ることを挙げた。

誰の下でお世話になりながら自給自足の生活を共にするか。調べていく中である株式会社さんを見つけ、代表のお二人とお話しました。

私は彼らの学歴を一切知りません。もしかしたら有名大学を卒業しているのかもしれないし、はたまた大学に進学していないのかもしれない。
それでも1つ言えることは、彼らの活動は「利益を得るための仕事」としてではなく、大自然の中で生きるための糧づくりを楽しんでいるように感じたということ。
その上で実際に株式会社を営むことで「生きる糧」を仕事にできているのだから、金銭面での過剰な心配もない。

つまり学歴や地位、名誉といった他人からの評価に縛られて生きずとも、「心の豊かさ」を育みながら生きていくことはできる。そのフィールドを彼らは一から作ったのです。
この時点で学歴は彼らの人生の基軸となっていないことが分かるでしょう。

何より無名の高校生がいきなり連絡してきたのにも関わらず、「所詮は高校生が言うこと」というラベルを貼った状態ではなく、同志としてお話してくださった姿に本当に胸が熱くなりました。彼らの目は美しかった。

ギャップイヤー入試には落ちてしまったけれど、私はどんな進路を歩んでも必ず彼らの下で「生きる」期間を作ると決めています。
まだ社会に出ておらず、素直な気持ちで人と、社会と向き合えるこの時期に行きたいのです。例え実社会に出るのが1年遅くなろうとも。


私の身近な人で考えてみても、学歴がなくとも、必ず成功するだろうなと思う人間が数人浮かぶ。 (ここで言う 「成功」とはお金持ちになることやまわりからチヤホヤされることではありません。)


窮地に追いやられた時に助けてくれるのは、本当に学歴なのでしょうか。
私はそうでないと思っています。


自分や大切な人に嘘をつかず、胸を張って生きていれば必ず困っているときに導いてくれる人が現れる。道が開ける。
それは普段からの誠実な行動を見てくれている人が、共鳴してくれる人がどこかに必ずいるから。
これは理想論ではなく事実だと思っています。

確かに窮地にいるとき、学歴が自身を救う要因になることもあるだろうけれど、学歴を頼みの綱にするような人生って、学歴だけで自分を判断されるのって、私にはちょっと虚しく感じます。

学歴に関わらず「豊か」な人生を送っている人がいる一方で、学歴はあっても自身の学歴や、それによって得た地位だけにいつまでもしがみついたり、その賢さを搾取を謀ることに使い、弱者を屍にしてお金を持っている人は大勢います。
けれど、私には彼らは本当に幸せそうには見えず、また余計なお世話であることは重々理解しているが、そういう人の目は濁っているように見えるのです。

それは彼らが「共に生きる幸せ、喜び」を知らないからだと思います。
人は一人では生きていけない。だから幸せな作り為すことも一人(本当に孤独な環境)ではできない。
出会い、傾聴、笑顔…人との繋がりを感じるその小さなつ1つのカケラが「幸せ」だと私は思うのです。

今の時期にこんなことを言うのは不謹慎かもしれないけれど、もし君が志望校に落ちたとしても、「終わった」とは思わないでほしい。これはもちろん自分への言い聞かせでもある。笑

思った通りの道に進まなくても、別の進路に歩むことで広がる縁が必ずあります。
そして、全力で頑張ってきたのなら、 この道を歩んで良かった、必然だったんだ、と思う日がいつか必ず来ます。
私自身、今回の大学の特別選抜や高校入試(これも特別選抜で落ちたんよ笑)、課外活動でなど、ささいなこと1つでも毎回自然とそう思えてこれた。だからこれまでの自分の行動に対して、後悔はありません。

時間をかけて培ってきたコミュニティ、人との繋がり、経験、そこで感じた思いは絶対に無駄にならない。 それどころか大きなアドバンテージになる。
もし信じられないのなら、私が今後の人生をかけて証明してみせましょう。
数式の証明はごめんだけど、 この証明ならできる自信があります。
そう思えるくらい、尊敬できる数多くの人とこの時点で出会えていることに感謝です。本当に。


そして紛れもなく、あなたもその1人なんだよ。
自他共に認める努力家で、しかもそれが結果にも繋がっているし、(もちろん結果が大事なのではなくて、努力して走り続ける姿勢が美しいと思っている) 何より優しくて気づかいができ、人を傷つけようとしない人間性に魅力を感じました。
生徒会で出会った時から、君のことがカンペキに見えて不思議でしょうがなかったけれど、一緒に帰っていく内に、今回のような会話の端々で人間味を感じて安心しました笑

ありがとう。




P.S.「君たちはどう生きるか」を読んだ方なら分かると思いますが、コペルくんのおじさんの手紙って、すっごく素敵じゃないですか!?(今更感)
ああいう大人になりたいなあ。。。
今回は高校の友人を思い浮かべ、手紙形式でnoteを書きました。



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