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生きてまたここで会いましょう

私と彼女の関係性をどう表せば良いのだろう。戦友という言葉は少々ポジティブでエネルギーに満ちすぎている。共同体というほど連帯感があったのかは分からない。強いて言うなら隣にいた人、だ。

でも、私たちは一緒に傷ついた。彼女は傷ついて、隣にいた私もそんな彼女を見て、傷ついた。傷の形は違った。同じような地点に立っていて、でもそれぞれに、明確に異なるかたちで傷ついた。

閉じられた部屋で発した言葉を、私はずっとこの体の中に閉じ込めていた。

何か大きな出来事が起きて、それ以前・以後と分けられるくらいに「わたし」がつながってゆかない、ということがある。見知っていたはずの世界がぼろぼろと崩れていく手触りを、私はよく知っている。

「その後」の世界で、私はまぶたという薄い膜を重く携えて世界を見るようになった。直面はしたくない。でも目を閉じないで、それから耳を澄まして。いつでも闘えるように。今度こそ何も削がれず、守り、乗り越えられるように。そうして体を張り詰めさせながら生きていた。

平気になった、つもりだった。

長い月日が経った。もう大丈夫と思えていたある雨の日、<あのとき>のトリガーが引かれて、手が痺れた。痛み止めを飲んでも和らがない頭痛が、数日続いた。

全然、平気じゃなかった。そのときになってようやく気づいた。私は結構傷ついている、ということに。私の腹の底に横たわる巨大な怒りに。

そのことに気づいた数日後から、長年頻発していた頭痛が減った。嘘のようなほんとの話だ。

痛む頭で考えることがあった。
もしあのとき、周囲の人、誰でもいい、事情を知る誰かが「大丈夫?」と、真正面から聞いてくれたなら、と。

腫れ物のように触られるよりもっと痛いのは、傷などなかったかのように接せられることだ。もちろん、生傷をいじるような行為は耐えがたかっただろうし、たえず傷をさらしたまま日常を生きることもしんどい。傷を閉じておくことは必要なことだ。

ただ、当時の私は、傷があることを見てみぬふりをされ、"もうおしまい。さあ、日常に戻りましょう"と促されたように感じたのだ。

だから「これは終わったことなのだ」と信じ、閉じた箱の上に色んなものを積み上げてきたけれど、<あのとき>をそのまままるっと飲み込んだ私は、ちょっとしたことで崩れる砂の城となった。そんな自分の脆さを恥じた時期も長かったように思う。

分断されたように思う人生は実は地続きで、これからも私は私を生きていくしかない。だから、きっとまた何かのきっかけでトリガーが引かれることもあるだろう。まったく無力で脆く、自分を責めることでかえって正当性を保とうとしていた<あのとき>の私に舞い戻る日が、きっとあるだろう。

それでも私はいま、ご飯を食べたり、人と話したり、自分の体調と向き合ったりしている。自分の労わり方を学びつつある。あのとき誰にも聞かれなかった「大丈夫?」を、自分でしっかり声をかけて、耳を傾けられる大人のわたしがいる。

近々、その友人とお茶をする。生きてまたここで会い、数年経ったら忘れてしまうような取り止めのない話をしましょう。

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