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『黄色い家』を読んで、あの子を思い出した


だいぶ前に『黄色い家』を読み終わった。分厚く、内容としても決して気軽に読める本ではなかったけれど、読む手が止まらなかった。久々にものすごい読書体験をしたと思った。

主人公含む登場人物たちは、社会のサポートの網目のようなものにひっかからず(そうしたサポートがあることを知らず)、生きるため、徐々に犯罪行為に手を染めていく。

この本を読んで、個人的な体験が呼び起こされたので、今回はそれについて書きたい。



大学生の時は、福祉系の仕事に進みたいと思って、その一環で児童福祉について学んでいた。そのため、頭の中の知識という点だけで言えば、公的なサポート資源について少しだけ多く知っていたと思う。ただ、それは本当に教科書の上での知識であり、素人にうぶ毛が生えたくらいのレベルだった。

ある日の美容院での雑談で、今何を勉強しているかという話になり、児童養護施設について話す場面があった。
その時、美容師さんは本当にきょとんとした顔で、「施設?なんか、学校みたいなものですか?」と聞かれた。 

えっ、と思った。そうか、存在を知らないんだ!とびっくりした。

これはつまり、その美容師さんの周囲には、施設とこれまで関係するような人はいなかったのだろうし、だから距離が遠いんだな、と思った。その時は、まあそういう人もいるよな、くらいに思っていた。


その後、もう1人いたのだ。それは長年付き合いのある友人だった。児童養護施設がね、と話した時に、「え?何それ」と言われたので、簡単に説明した。
「え!!すごい!!そんなところあるんだ。なんか、漫画みたいだね!!」という無邪気な声が返ってきて、思わず呻きそうになった。

なぜなら、彼女はもしかしたら、かつてそうした施設で保護されるべき対象だったかもしれない人だったからだ。

彼女の生い立ちを詳細に書くことは控えたい。ただ、今思い返すと、彼女は虐待を受けていた、と思う。身体的な虐待以外はおそらく全部。

またある時は、お金を貸してほしいと言われた。中学生くらいの頃だったと思う。怪我をしたのに親は病院に連れて行ってくれない。自分でなんとかしろと言われたけどお金がないから少し貸してほしいと言われ、貸した。お金はそのあとちゃんと返ってきた。

今思えば、あのお金はどこから捻出していたのだろうと思う。当時は、やっぱり親が病院に連れて行ってくれたのかな、なんて思って、特にそれ以上疑問に思うことはなかった。

彼女に頼まれて友達紹介のリワードがつくポイントサイトに入会したこともあった。
ポイントが換金できると、彼女は「私は自分でお金を稼いでいる。お小遣いをもらいながら親にいろいろ文句言ってるやつは、親に世話してもらってるくせに何言ってんだって思う」と言った。似たようなことはその後も何回か言っていて、自分でお金を稼げる、ということが、彼女にとって砦になっているような感じた。そう、自信じゃなくて、砦。

そうか、保護してくれる施設があるという話は、大学生になるまで、彼女のもとに、届かなかったのか。そしてそれは、彼女が単にものを知らなかった、という話ではないんじゃないだろうか。
彼女の無邪気な声をバックに、なんとも言い難い強烈な違和感を覚えた。
『黄色い家』を読んで、ふとそのことを思い出した。

彼女の行方は、今となってはもう分からない。



先の話は、もうだいぶ前のことであり、今はもっと手軽に多くの情報にアクセスできるので、公的な制度についての認知度は高まっていると思う。思いたい。
それと同時に、そういった情報が存在するということも、その情報へのアクセスの仕方が分からない、という人も、今も絶対どこかにいる、とも思う。

私も「たまたま」知識として知れる環境があっただけで、少しの違いで美容師さんや友人のように「何それ?」と言う側だったんじゃないかと思う。

私自身、大なり小なり色々な目にあった。でも、私は大人になった。大人になれたのだ。住める場所がある。病院にかかるお金がある。ごはんを買いに行く気力もある(時々無理だけど)。

だから今度は、大人の「私」は、社会の一員として、ヘルプのバトンをつなげたいと思う。なんて、いい風に書きすぎだろうか。あるいは、理想論だけの、未熟な考えかもしれない。そこも含めて、これから成長していけたらと思った。

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