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発明された「恋愛」と閉じこめられた現代人

神聖なモノはだいたいウソ


満たされない生活のなか、ついに現実と幻想が逆転してしまったのが現代人です。もう冬のはじめ、凍てつく新宿の華やかな幻想の群れ、酔った人々がはしゃいでいる。店頭、アニメの美少女が微笑んでいる。広告バスが、空虚なまでに明るい歌をたれながしている。幻想だらけの街。誰もが人生への実感を失っている。それでも貧乏人だって恋愛くらいします。恋愛は、人生の実感をひとときであれ回復してくれるから。

だからこそ「恋愛」という、新たにつくられた近代思想が、貧乏人にたいする最重要の戦略拠点です。というと、いまアナタのけげんな表情が私にはありありと見えそうだ。けれど私は、なにも突飛なことを主張しているわけではないですよ。勝手な思いつきでもない。ミシェル・フーコー(1926-1984)が『性の歴史 histoire de la savoir』(1976年)で、このことを徹底追及して、私たちにしめしてくれています。

フーコーは、いまなおフランス現代思想の最高峰と目されている知識人です。フーコーが主張することをまとめてしまえば、現代社会の貧乏人は、恋愛によって脳世界がパンパンになってるんですよ。甘くほろ苦い恋愛は、貧乏人統治のためのもっとも重要な戦略拠点なんです。

フーコーは、「恋愛」を軸とする近代の権力と、「死」を軸とする近代以前の権力のありかたを対比させています。対比は重要です。モノゴトの本質がよく見えますからね。かつて、死は毎日つきまとってくるものでした。現代みたいにインフラが整備されてもいなければ法整備もない。殺し殺されるのがふつう。だから弱者は強者のパワーにすがった。これが権力でした。


『性の歴史Ⅰ 知への意志 』p184~p186(ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社 1986年)
 
血は長いこと、権力のメカニズムの内部で、権力の顕現と典礼の内部で、重要な要素であった。婚姻のシステムと、主権者=君主の政治的形態と、家系の価値とが支配的である社会にとって、饑饉と疫病と暴力とが死を切迫したものにしている社会にとって、血は本質的な価値の一つをなしている。(※中略)

戦争の名誉、饑饉の恐怖、死の勝利、剣を持つ君主=主権者、死刑執行人と死の刑罰、こういう形で権力は血を通して語った。血は象徴的機能をもつ現実である。我々のほうはといえば、我々は「性」の社会に、というかむしろ「性的欲望をもつ」社会に生きている。権力のメカニズムは、身体に、生に、生を増殖させるものに訴えかけ、種を、種の力をその支配能力を、あるいはまたその用いられる適用性を強化するものに訴えかける。(※中略)

古典主義の時代に準備され十九世紀に実行に移された権力の新しい仕組みこそが、我々の社会を血の象徴論から性的欲望の分析学へと移行させたのである。
 

もう一度くりかえします。フーコーは、現代以前、権力が担保にとったのは、弱い貧乏人たちの死への恐怖だったといっています。それだけ死が身近にある社会だったということ。殺し殺される世界のなか「俺が守ってやる」と。それが権力でした。

いっぽう、私たち現代人にとって、死はいましばらく遠くに隔たっています。権力者は、死への恐怖を担保にできません。ならば、なにが権力者に権力をもたらすのか。それは貧乏人の生を充実させたいという願望、といえばカタイから、つまりは楽しいこと嬉しいこと、気持ちいいこと。その最果てのかたちである恋愛です。

貧乏人が恋愛したとき、権力は発動されます。プレゼントが必要、美容も大事、すなわちお金も使うし、ケンカで体力つかうわ、失恋したならアルコールも重要、粘着性の人間はストーカーになって、悲しみと喜びに閉じこめられて。もっといえば権力者としては、貧乏人にはアイドルに恋していてもらいたいですね。お金つかってくれるし、幻想で勝手に遊んでくれるし、政治にやかましいことをいわないから。

ひきこもりがアイドルを殺すのも想定内。恋愛を設計した近代の哲学者からすれば「まあそれもありえるよね」という程度のものでしょうね。聖なる世界に閉じこめられて自分の頭のなかだけで陶酔しきっている人間って、哲学者や神学者、あるいは文化人類学者から見れば見なれた光景、「あーまたか。」という程度のモノでしょう。

アメリカのジョンズ・ホプキンス大学などは、そうやって冷静に観察していますよ。ジョンズ・ホプキンス大学は、アジア人研究をやって久しい。コロナの報道でよく出てきましたね、ジョンズ・ホプキンス大学。もともとは優生学を研究していた機関がジョンズ・ホプキンス大学です。自分たちだけが高みに立って貧乏人を観察するイヤな連中です。そしてたしかに、貧乏人連中は自分の状態を自分の自由意志で選びとったものだと確信しているというね。完璧じゃないですか。でもそこは、優生学の手のひらのうえです。


江戸時代に「恋愛」はなかった


「恋愛」というコトバは、もともと日本語ではありません。1846年の上海でつくられた造語です。Loveという観念を、なんとかアジア圏内に理解させようと、中国侵略中のキリスト教・プロテスタントたちが腐心しました。『明治のことば辞典』(惣郷正明・飛田良文編 東京堂出版 1986年)によれば、メドハーストというイギリス人宣教師が、英華辞典にて「Love」を「恋愛」と翻訳しました。

イギリスが中国王朝の清(1644-1912)を打倒したアヘン戦争のあと、当時1840年代の上海に、「墨海書館」というキリスト教系の出版社が設立されました。これがキリスト教勢力による極東侵略の一大拠点です。

墨海書簡からの輸入である「恋愛」が、1840年代から少しずつ、100年以上かけて日本に浸透していきました。現代日本において「恋愛」が輸入コトバだという自覚はすでにありません。

日本では「恋愛」のまえには、恋あるいは色というコトバが使われていました。色街、という華やかなコトバがありますね。明治期に「色」が薄れ、「恋愛」という言葉が定着していくさまは『「愛」と「性」の文化史』(佐伯順子 角川学芸出版 2008年)が詳しい。

同著の指摘するところによると、恋愛観念がひろがるにつれ、自然な欲求である性欲は、しだいにキラわれていきました。キラわれる性欲、これはたしかに私たちにも実感でわかります。反比例で、聖なる恋愛という、日本人にとっては、えたいのしれないものが至上価値になっていきました。

「色」において未分状態の性欲は、「恋愛」において分離させられました。だからつまり、性欲は開発されたんですね。光なければ闇ないように、恋愛なければ性欲もない。下半身はスケープ・ゴートにされた。あまりに光り輝くLove、恋愛というイデアのために。色といえば、たしかに性欲もなにも、ごったまぜの感がある。「色」にたいして「恋愛」のほうがなんとなく神聖な気がする。その感覚で正解です。

「聖と俗の分離こそ、宗教発生の起点である」と、エーミール・デュルケム (1858-1917)は主張しました。いまや性欲は俗どころか、吊しあげと嘲笑のまとになっている。だから恋愛とは、下半身をスケープ・ゴートにした宗教なんです。


性欲を否定すると人間が狂う


ところで私は、性欲の激しい否定は人間をおかしくすると考えています。だっておかしくないですか?本来、赤ちゃんを産むための大事なことなんです。それを、なぜか汚いものにしてしまった。

おいつめられた性欲は、人々のなかでねじ曲がって蓄積されて、通り魔のような存在を生んでしまう。「性欲の否定」は、プロテスタント本場のイギリスこそさかんで、イギリス最盛期の王朝、ヴィクトリア朝がギチギチの倫理国家だったんですよ。

性欲否定のヴィクトリア朝(1837-1901)のころに、切り裂きジャック事件なんかは起きてるわけでね。女性をズタズタに引き裂いて気持ちいいのです。これは、現代日本もおなじですね。ヘンな犯罪が多い。2017年には神奈川の座間で、若い女性ばかりをねらって殺し、その首を自宅のアパートに保管するというイカレた犯人がいました。1994年の酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)は、幼児を殺して射精していました。私は彼らを見ながら、聖なるものをこじらせた結果だと考えているわけです。

聖なるものは彼らの頭のなかにだけあって、しかしそれは現実には存在しないわけで。まさしくプラトニックラブで、ここにプラトンの名前が入ってますが、そんなこの世にはありえない愛を追及してしまうと、それは人間の限界を超えた不自然きわまりない世界ですから。脳が壊れるんですよ。

街を歩くとあふれるラヴソング。のみならずイヤフォンを耳にさしこんで電車に揺られる人々を見るにつけ、私は現代における祈りの姿を思わずにはいられません。信仰のたえまない再生産が、そこにある。これ、中世キリスト教における讃美歌とおなじです。

そのへんの美しいラブソングひとつとりあげて、「あなた」という歌詞を「神様」に代えてみるとおもしろいですよ。立派な讃美歌ができあがりますから。現代日本人と中世キリスト教徒は、まったく同型の精神構造をもっています。

中世ヨーロッパは暗黒時代だったというくらいですから、いまから1000年後の歴史の教科書には「21世紀日本は暗黒時代だった」と書かれているんでしょう。

なにも知らない、なにも見えていないにもかかわらず、自分はひととおりの知識をそなえた常識人だと思っている。でもね、目隠しされてるんですよ。まあそういうことに気づいてほしいから私は今これを書いているんですけどね。目をふさいだまま愛がなんちゃらのラブソング聴いて頭のなかだけ聖なる世界がひろがって、そんなひきこもりの人生楽しいですか?

ラブソングの美しさもわかるけども。私も少年の頃、よく聴いていました。いまでも時々聴きますよ。思春期のころの、あの苦しみが胸に突き刺さる。でももう私は学びました。私が、自分の感情だと思っていたもののなかに、私のものではない既製品の感情が、かなりの濃度で混入している。その既製品こそイデア=哲学です。


第3回終わり

次回「社会に壊された人々へ」
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前回の文章はこちら↓

イデア論が不自然な世界をつくる


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