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解釈されない歴史イベントは

「歴史を描いていた分、花燃ゆの方がマシだった」と言う意見を、そういえばぼちぼち見かけるなあと思いつつ、感じた違和感について。

私の場合ですが、製作者が何かしらの意図をもって、つまりとある事件をとある角度から意図的に切り出してドラマ独自の解釈を盛り込み、さらにそれがまあうまくいっている、と私が思う場合に限って「描く」という言葉を使います(と思います)。

言いたいことはわかるけどもう一声、と思う場合には「描こうとした」って書くな、多分。

で、特に意図を感じないような歴史描写については「描写した」とか「描写があった」って言う。そういうシーンがありましたっていう、そのまんまの意味で。

同じ漢字が含まれている言葉だけど、「描く」と言う言葉にはより豊かで大胆で意志的なニュアンスを、「描写する」には事実の反映と言う乾いたニュアンスを感じます。

なので、あくまで私の個人的な見解ですけど、花燃ゆは「ドラマ中で触れた歴史イベントは多かった」「描写はあった」とは思うんですが、「描いた」と言う評価においては、今年の西郷どんと比較して、より豊かに「歴史を描いた」のかと問われると、首をかしげざるを得ないな。

えーと花燃ゆをdisりたいわけじゃないです、もう決して。でも、私にとっては「描く」と「描写する」の間には結構大きい溝があるんですよね。そのことは言いたい。

意図的に解釈され、構造化されて、ドラマの中に取り入れられて初めて滾るんであって、大砲どーんだけ見せられても評価に困る。

特にドラマ中で解釈を必要としないイベントにリソースをかける意味は感じないですし、どんなに歴史的な重要イベントであっても、ドラマ中で淡い扱いであるべきものは、台詞で触れるだけ、あるいはスルーでも構わないと思うんですよね。

見えている景色は立ち位置によって異なる、という表現の一つとして。

ドラマの中でそれを大きく扱わなかったからと言って事件を無視しているという意味ではないし、ましてや重要な事件ではなかったという自説の表明でもないと思うのです。

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