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私の小説はなぜ完結しないのか


  我ながらひどいタイトルである。書く書くと言いながら書かないという詐欺をかれこれ数十回は繰り返してもなお書く書く詐欺を続けている悪いやつであります。
 他の趣味はそこまでやらない詐欺を働くことはなく、絵を描かない詐欺を発生させたこともないので、かれこれ二十年近く続いている「小説書く書く詐欺」は私の中ではかなり深刻な犯罪のうちの一つであります。
  公言してる故に万が一拙著を期待されてる人がいたとしたら、本当に申し訳ございません。多分もう信用されていないことだけは間違いないと自信持って言えるのが悲しいところ。

  この2週間、完結しない理由を考え続けている中で考えや思いが移りゆきそんな自分に戸惑う中で、一定のものを見出せたのでそれを書こうと思います。

「かく」こととのつきあい

  二十年近く「書いてるくせに完結させない」という詐欺を働いている訳ですが、実はその二十年の前に「描く」ことをしていた時代がありました。

  描くことを始めたのは9歳の頃で、ご多分に漏れずかつての少女雑誌「りぼん」に出てくるようなキラキラした女の子を描くことに憧れたわけです。クラスメイトに絵の上手い子もいたこともあり「らんま1/2」は何度読んだことか。今思えば入口がサンデーやジャンプ系列のコミックばかりだったので、「聖闘士星矢」を熱心に視てビックリマンチョコを集め、アバンストラッシュ(偽)やかめはめ波(大嘘)を放ち、スーパーマリオブラザーズからゲームと付き合い出すことになります。
  16歳の頃から構想を文字にするようになり社会人になるまでは描くことと書くことを並行していく中で、文字の方が自分の思ったとおりに表現しやすいと感じ移行していきました。学校や社会に出てからも文章を褒められる機会が何度かあったことも影響していると思います。

  ちなみに全ての期間において活動の原動力は推しの存在で、9歳から今に至るまでゲームキャラ3人が関係しています。単体で描くよりも複数のキャラがいる場面を描くことの方が多く、好きなアップリングがあっても特定のキャラとだけ組ませることはあまりなく、自然とその作品の全キャラ描けるようになっていました。今でもこの3作品のメインキャラは上手い下手は別にして全員すぐに描けます。
  志向の問題なのか、小説を書くようになってからもこの傾向は受け継がれていて、そのキャラの細かな立ち振る舞いよりも他のキャラや敵、情景などとの間で生まれる空気感やそこから映し出される心の細かな動きを書くことの方が楽しくて、結果その作品のいろんなキャラの立場に立って考えているとなんだか親近感沸いて「この作品のキャラみんな好きだなー」という平和というか頭お花畑というか、そんなことになっています。そのせいか勧善懲悪よりも人間くささ満載の作品をよく好んだように思います。
  子供ながらに一番ショッキングだったのは、ドラクエ4のアッテムトの街や姉妹とその周辺人物の描写でしょうか。ドット絵で容量もセリフも限られる中で、子供にもあんなにわかりやすくとてつもない絶望感と人間くささを与える作品はあれからまだ出会ったことがないです。思春期真っ盛りの感傷的な人間にとっては絶望感が強すぎて数日眠れなかったのでした。ああ恥ずかしい。


「絵」のわかりやすさ


 書くようになりしばらくしてまず気付いたのは、そのキャラの服装のボタンの形とか質感とか、そういった目に見えるディテールをほぼ考えなくなったこと。人にもよるのでしょうが、私はそういった描写を書くことがないと気付いたときびっくりしてしまいました。描写しよう文字にしようと考えると一応出てきてはくれますが「文字にしないといけないからしている感じ」がすごくて、その気持ち悪さに耐えられなくて諦めた経緯があります。諦めてから「でも絵を描いていたときはできていない箇所は直そうとか上達しようとか思っていたのにな…文字はそういう意識ないなぁ」とふと疑問を感じました。
  絵は、まず頭の中に起点となる情景があって、それをより上手くより素敵に、また公式設定に忠実に描くこと目指して描いていく中で自由に起点以外の部分のイメージが勝手に描かれ、途中も何度も微修正を加えているうちに結局修正しても頭の中のイメージと絵の乖離が直せず、諦め半分に「これで完成」と。昔からずっとこんな感覚で「より正しくより素敵に感じるように描きたい」ことが描くことの中核にあるのだと考えています。

 書くようになった理由として、褒められて書きたいと思ったというポジティブな理由以外に、絵を描き始めいわゆる同人活動と呼ばれるものを過去にしていた中で自分の才能のなさを感じ(といっても上手くなるための努力はあまりしなかったのですが…)、その劣等感に耐えられなかったからということもあります。文字と比べて絵は一目でその出来がわかり評価されてしまう。描かれた絵から醸し出される味や匂いという目に見えない要素があることもわかっています。それでも絵に味があるから好きだと言われても、上手い下手のわかりやすさとそれに対する世間が評価する空気の前には、絵のもつ個性や味、匂いの無力さを感じてしまうのです。

  今は昔以上に「いいね」などの反応が目に見えてわかる形になってしまいました。他人の目が気になるタイプにとっては「表現する、される」ことの辛さを感じることが増えたように思います。
  見たいときは自分が望んでその絵師さんのHPなどを見に行くことが多かったので、長い間絵を描く活動から離れていた私は、絵を社会に出す方法としてSNSがこれほどまでに多用されているとは考えてもおらず、意図せず流れてくる他人の絵に対して結構辛いものがあったのが本音です。それをもってミュートしその人の投稿の全ての閲覧を拒否することは、どう考えても自分勝手としか思えなかったのでやりませんでしたけど…。絵をSNSに載せるなということではなく(気にくわないものを載せるなということ自体が傲慢だとも思う)、その絵から感じられる絵師さんの個性を楽しめることは本当にありがたいことで嬉しく思っています。でも中には思いを形にしたいというよりも評価が欲しくて載せたんだなと感じてしまうような絵もあり…。体裁を気にしたりすることなく絵と接することができる人は心からすごいなあと思います。

 

「話」の曖昧さ


  小説も一緒で「形にしたいから書くけれど読まれたくない…でもやっぱり知ってもらえるとそれはそれで嬉しい」とでもいうか。私にとっては描いたり書いたりして「表現」したものを知ってもらうことがmustではないのです。自分の中にあるものをそのまま出す活動が「かく」ということで、前述のように描くことはそれが難しいことから書いています。

  絵でも文字でも頭の中のぼんやりとしたイメージから始まるのは一緒なのですが、私の場合はぼんやりとしたそれを鮮明にしていくのが描くことで、ぼんやりしたものの奥をつかみにいくのが書くこと、という違いがあります。イメージを目に見える形にクリアにしていく作業と、イメージをもっと概念でつかんでいく過程でこぼれる言葉を拾っていく作業という、真逆のことを行っているような感覚があり、後者の方が自分の中にあるものが自然と形になったものに近いかなと感じています。
  ですがその過程の中でも自分の中にあるイメージである以上は過剰に偶像化されてしまうことを避けられず、後で読み返した時にそれに気付くことになります。「話が、キャラが美しすぎて不自然で気持ち悪い」という感覚に我慢ならなくて修正します。修正に修正を重ねると自然と浮かんだイメージからの乖離が大きくなり、ついには動けなくなってしまい…。話のはぎれだけは大量にできてしまうのです。そうやって自分にとって心地の良い失敗作を書くことを繰り返しているうちに、「綺麗じゃない、ありのままの汚い部分を書きたい」と強く思うようになってしまいました。そしてそれがものすごく難しい!読み返してかっこよくかわいくなりすぎた話はバッサリ切ります。かくしてかっこよすぎる、かわいすぎるショートストーリーばかりが今手元に積み上がっている事態となっております。自分が読み返す分には幸せだけど、これ完全に自己満足だよねぇ…とどこか醒めた目で見てしまうのです。


絵を、小説を、SNSを「かく」


  かくあって欲しいと思う自分の中のバイアスを切り離すのは大変で、しかしありのままを見たい知りたいと思う時、全力で剥がしにかからないといけない。「表現する」ってそういうことなのかなと考えると、今巷に溢れている表現物の多くが、何かの層に覆われているのを気付かずに著者が表現してしまっているのではないかとふと感じたりするのです。世間や他人の論評に影響されてそれに似た思考のコメントを書き込んでしまうとか。そう思うと「描く、書く」活動をしない人も表現者として、気にかけた方がいいことなのかもしれません。

  最近思うのが「表現しない」ことの表現。私たちは、声の大きい人の考えは主張は通りやすく、聞こえてこない意見はどうしてもないものとして扱いがちです。だからこそ近年では特に主張することの重要性を教えられるわけですが…私にはちょっと、それが耳障りに聞こえる時もあるのです。「そこまで言わなくていい」「そんな言い方でなくてもいい」「ここで今言わなくていい」と。主張してもしなくても、見ている人は見ているしわかっているのに、本人はそれに気付いてないから表現したがるのかな、と。主張しないと気づいてくれない人は、あなたにとってそこまでするほど大切な人なのかな…と。

  おりしも「暴露系YouTuber」をはじめいろんな有名人のコメントがすぐに世間を賑わせている今の時代や社会そのものが、そのSNSの在り方も含めて私にとっては生きづらさを感じる世界です。主張できる自由が当たり前になり、一個人もその自由を振りかざすようになり、自分を主張することに懸命で自分の正義や欲望の前には他者を傷つけることは許容されるとでもいうような…。そしてそこに権力や忖度、情報操作、見えないしがらみが絡み合って、もう何が本当で何が嘘なのか。善悪は絶対なのか。声に出す意味ってなんだ。どうして「かく」のか。いやもっとシンプルに考えてもいいのか。

  SNSにより主張できる自由が広がったことで、そこには今まで見えなかった「他人を思いやることを忘れた傲慢さ」が文字という形となってあちこちに噴出しているように思います。思いやりがない訳でもなくできない訳でもなく、本人も気付くことができずに忘れてしまったんだなぁと、悲しくなるのです。私自身に悲しくなることもあります。
  自分が正しい、自分は立派だ、自分は頑張った、自分は今辛い…それを読む側はきっと「共感」を求められていて、共感したサインや読んだという印として「いいね」ボタンがある。SNSに勝手に絵や文字が流れてきて「承認しろ」と言われている感じに強い抵抗がある。現代のSNSに、半強制的に「俺を認めろ」と言わされてる感を覚える私はきっとSNS不適合者なのでしょう。いいねを集めることで自分や周りの人がどこか歪んでいくのを見るのも、それに加担するのも…。最終的には誰も幸せにならないと思ったから。
  
  SNSを使う自由も使わない自由もあり、SNSやゲームがあったからこそ実現した出会いがあり交流を通してそこに確かに自分と同じように尊重される「人」がいることや、そんな人を大切に思ったことを過去のこととして切り離した今はただ、どんな形でも幸せであってくれたらそれでいいと思っています。

結局いつ完結するのか

  残念なことに今気軽に使えるアプリやツールはコミュニケーションがとれて自分や自分のがんばりを評価してもらえるようなものを売りにしているものがほとんどなんですよね…。声出さないとやる気ないとかコミュ障と見なされてしまう。そんなに頻繁に声出したくない人はちょっと困っています。
  とりあえずnoteや投稿サイトに書きつつ、表現の暴力に気をつけようとして自分の表現したものを見返すと書き直しが発生し完結しない。ベールを被ったものを一気に書き上げてそれを修正していくのか、素っ裸にしたものを積み上げていく方がいいのか、書く方向性に悩んでいます。ですが、書くこと自体はとても楽しんで書いています。

  今書いてる小説を書き出してみてわかったのは、出来上がり」前の書く段階で、当時は気付かなかった様々なことへの気付きが多いということです。特に無意識にとっていたであろう自分の言動などは、よく見せたくて捻じ曲げて書くことがとても多く、それを読み返す度に「いや違うでしょ」とツッコミ入れながら没にしては書き…ということを繰り返しています。
  当時の思いを知ってほしいのか、自分の気持ちを纏めておきたいのか、その一連の経験に費やした時間を有意義なものだったと美化したいのか。その小説を書く理由は幾度となく考えてきましたが、いちばんしっくりくるのは「その時間を一番近くで一緒に過ごした存在への感謝を形にしたい」のだと思います。誰かのためではなく、でもそれを書くとき否応なく関わった人やものが自然と思い出されるような、どこまでも自分勝手で自分にしか書けない、変な脚色なしの生鮮品として文字を書き出したいのだと思います。

  その過程でなんだかやたらとキラキラした何かを纏った感謝を形にしたい存在とキラキラした自分が現れるわけで「いやいや、何枚着込んでるの」とたしなめる。無理矢理引っぺがしてまで書くようなセクハラはしたくない。恥ずかしいけど知ってほしいと思ってくれたらありのままの姿は見えてくるだろうしのんびりと待つ。そうやって出来上がったら「これを公にしていいか」と訊いて同意が取れたら出す。そこにも私の歪んだバイアスが加わっているかもしれない。答えのないものをかくのは、完結させることよりもその過程の方が大切なんじゃないかと思うようにもなり…それが完結しないことの言い訳であることも感じていて。結局完結時期は見えず、ただただ自分の表現をあらわすことの難しさに打ちひしがれるのです。

  表現しない人は感性に乏しい訳でもなく「かく人」が素晴らしいわけでもなくましてやその上手い下手や収入や人気度、ファン歴も関係ない。そうわかってはいても「かく」ことの因果関係を学んでしまった多くの人は(当然私も)無意識に、自分に向けられる評価から逃げられなくなっていて、その不自由さもまた無意識に感じているように思います。
  そこから抜け出せる瞬間と、ありのままを出したいと掻き立てられる瞬間が交わったときに筆が進むのかなと思い、今日もとりあえず「食べ過ぎた…」などとどうでもいい話を振っては「毎日言ってるよね、直す気ないよね」などと白い目を向けられるこの平凡な毎日をありがたく思うことにします。

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