見出し画像

命のやり取りに立ち会った話。

前話はこちら

出産予定日の前々日、陣痛が来たのは夜9時ごろ。それまでも前駆陣痛らしきものはあって、今回もそれかねえなんて言っていた。しかし、途中で妻が「なんか今までと違う」といって念の為間隔を測りだした。

ミッドワイフ(助産師)には、強い陣痛が3分間隔になったら連絡してと言われていた。測ってみると、間隔はすでに3分~5分という感じ。しかし、強い陣痛の「強い」とはどれくらいかがわからない。

すでに今までで最も「強い」痛みのようだが、初産のためどのくらいの強さで連絡するべきかがわからない。結局夜中の1時まで耐えて連絡。後になって考えてみれば、連絡すべきかどうか迷ってるくらいの痛みなら、それはまだまだってことだ。

ミッドワイフが自宅へ到着

妻によると、陣痛は痛みを伴う強烈な便意のような感覚で、腰のあたりを強めにさすると、痛みに耐えやすくなるという。やってくる周期に合わせて耐えている間、ひたすら妻の腰をゴシゴシとさする。だんだんと強くなる痛みに唸りながら耐える妻。痛みを散らすように渾身の力でさする私。

午前3時ごろになると、陣痛の間は話はおろか、何かにつかまっていないと体を支えることすらできない。妻がしがみつくのは私の肩で、全体重を預けてくる。これを朝まで続けるのか、と思う。

午前4時、ミッドワイフに再連絡。状況を伝えると、これからこちらに来るという。30分ほどで到着した彼女は、ニコニコしながら、病院に行くまであと1時間は粘れるね、とのこと。寄せては返す陣痛の波と闘う我々夫婦を、薄暗い寝室の傍で見守るミッドワイフの涼しい顔よ。

午前4時30分、ミッドワイフが子宮口の様子をチェック。6cmまで開いているのを確認し、病院に連絡。残念なことに、希望していたプールでの分娩が他の人が使っていてできない可能性が高いとのこと。土壇場での "Unfortunately" 攻撃。NZあるあるだが、またしても!よりによってここで!

3分間隔の激しい陣痛。ミッドワイフは5時ごろ病院に移動しようか、というが、助手席に普通に座って耐えられる自信がないということで早めに行くことを提案。受け入れられて、まずはミッドワイフが病院に自走。受け入れ体制を整えるという。私は車の準備。破水してもいいように助手席に防水シートを敷いた。

しかし、妻が動けない。陣痛間隔は2分を切ることもあって、私が動いて準備をしようとするとすぐに呼ばれてがっちりと肩を掴まれるので、その間は何もできない。結局、寝室から車庫までの短い距離を移動するのに1時間かかって、午前5時30分に出発。病院までは20分。助手席には叫ぶ妻。

街で一番大きい産婦人科病院のロビーに車をつける。ミッドワイフが降りて来るのを待つ間、ひたすら妻の腰をさする。一度駐車場に戻り、荷物を持っていかなければならない。駐車したあと、米俵のように膨らんだドラムバッグを4つ抱えて病院に戻る。エレベーターを待つのももどかしく、3階まで階段を駆け上る。

病院にて

分娩室は、普通の病室だった。電動リクライニングのベッドの脇にしがみつき、床にひざまづいて悶え苦しむ妻。隣では、ミッドワイフがなにやら書類に記入していた。声をかけて、腰をさするのを再開する。腰さすりがあるとないとでは、痛みに耐える力が天と地ほど違うという。当然ながら、私にはわからない。陣痛はどんどん強くなる。ここから3時間ほど、午前9時まで、延々と陣痛の波に耐える。

9時になって再度、子宮口をチェック。なんと、家にいた時と同じ6cmから変わっていないとのこと。このときの絶望感といったらない。今まで4時間頑張って進捗ゼロかよ。またあと1時間後に再チェックということになった。体力的にも、精神的にも妻が消耗しているのがわかった。厳しいぞこれは。

緊急事態

その後の1時間は、永遠とも思えた。妻は、痛みを紛らわせるための笑気ガスを吸うのだが、全く効かないらしい。そろそろ体力がやばいということでモルフィネを打つことになっても、パソコンのログインパスワードが弾かれるとかグダグダやっている。20分くらいかかってパスワードをリセットし、打ったモルフィネも、全く効かない。いったいどうなっている。そんな感じでもう30分はすぎただろうか、と時計をみると、5分しか進んでいない。

アインシュタイン博士、相対性理論ってな実感できるんですね。

やっと1時間が経ち、祈るような気持ちで再度子宮口をチェックすると、ミッドワイフの顔色が変わった。胎児の心拍数が下がっている。それまで3人きりだった部屋が急に慌ただしくなり、一気に15人くらいの人が出入りするようになった。ドクターが呼ばれて、手術室に妻を運ぶ旨を告げられる。

その間も慌ただしく人が出入りする。書類を手に手に、様々な説明をするスタッフ。驚くべきことに、妻に手術のリスクを説明し、書類にサインを求めてくる。もちろん、サインなんかできない。地図に書かれた小川のような線を3本ほど引いただけだ。インフォームド・コンセントとはいえ、無茶なことをする。

明らかに一変した空気。これは、エマージェンシーだ。もしかしたら、と最悪の事態が頭をよぎった瞬間、陣痛で苦しむ妻が、決めていた子の名を絞り出すように口にした。医者に泣きながら「Save my baby」と懇願する妻を見て、出産の、厳しい現実が急に目の前に迫ってきた。目前の母親の膨らんだ腹のなかに間違いなく胎児がいる。でも、そこから狭い産道を通って外に出て来ることは、現代においても「命のやり取り」であり、100%の成功が約束されているわけではない。

手術室までの通路をストレッチャーの後ろからついていくと、妻が私を探していたので顔を見せて手を握った。一瞬、その顔に安堵が戻ったが、すぐに苦悶の表情になった。私は、闘いを続けている妻を、扉の向こうに見送ることしかできなかった。

つづく

この記事が参加している募集

スキしてみて

たくさんの方々からサポートをいただいています、この場を借りて、御礼申し上げます!いただいたサポートは、今まではコーヒー代になっていましたが、今後はオムツ代として使わせていただきます。息子のケツのサラサラ感維持にご協力をいただければ光栄です。