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【NZで出産!】緊急対応の代償は、冷めたコーヒーだった。

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しばらくすると、手術室の向こうの妻の声が聞こえなくなった。

分娩室で聞いた話によればシアター(手術室)に運んだ後、自然分娩が可能か判断し、だめならシザリアン(帝王切開)になるとのことだった。麻酔で陣痛から解放されたのだろうか、そうであればいいのだが。

手術室の扉の脇のベンチに座り、しばらくあれこれと考えたあと、もういちど深く腰を掛け直した。それから坐禅よろしく半眼で静かに呼吸を整えはじめる。ストローで息を吹くように細く8秒。吐ききった反動で吸い4秒。投げ上げたボールが一瞬空中で止まるようなイメージで2秒止め、またストローで吐くこと8秒。そんなふうに呼吸を繰り返していると、その様子が呆然自失に見えたのか、くる人来る人が「大丈夫か」と声をかけて来る。彼らを適当にやり過ごしながら、それにしても、と思った。

見事なエマージェンシーハンドリングだったな。

ミッドワイフが異変に気づいてから、2分もしないうちに分娩室が人でいっぱいになった。それまでは、夜中ということもあって人はまばらだったのに、彼らはどこにいたのだろう。ずっと待機していたのだろうか。

最初に来た医師は、小柄でメガネをかけた女性で、彼女がシアターに運ぶことを決定したようだった。その後、麻酔医が現れて私に妻の麻酔に対するアレルギーの質問をした。

他にも、ベッドをストレッチャーとして使うために変型させる者、輸血や輸液に備えて点滴針を打つ者、ミッドワイフの話を書類に記入している者、病室の外に出て行く者、入って来る者。そして、その全員が誰かと話していた。部屋の中が喧騒でいっぱいになり、明らかに状況が切迫して来ていることがわかる、そんな雰囲気だった。

もともと、この病院より小さくて自宅に近いクリニックで出産する予定だったのだが、子宮の中に少し大きめのポリープがあるということで、万が一の出血リスクから緊急手術への対応を考え、この大きな病院を選択したのだった。クリニックのほうは、施設が新しく、食事などの待遇がよいので有名だった。分けても、産後に供されるホットチョコレート(ココア)がどうやら「格別」だそうで、大病院での出産が決まった時、妻は悔しがった。

しかし、もし予定通り当初のクリニックでやっていたら、今頃は救急車の中だっただろう。麻酔もできず、のたうちまわっていたに違いない。ベッドにしがみついて微動だにできなかったのに、救急車で運ばれるなんて想像もできない。

さっきまでいた病室は、今いる手術室の2階層上にある。もはや誰もいなくなった部屋のベッドサイドにあるテーブルには、数時間前にミッドワイフが私に持って来てくれたインスタントコーヒーが置かれているはずで、カップは冷え切っていることだろう。暖かいときですらひどい味で、一口すすっただけで残してしまったが、今となってはその泥水のような味のコーヒーが、天から授かった聖水のように思えた。ホットチョコレートを選ばなくて本当によかった。

不意に、手術室のドアが開いて、給食係を100倍プロフェッショナルにしたような出で立ちの人が私に手招きをした。メガネをしていて、さっきの小柄なドクターだとわかった。中に入れるとは思っていなかったので、驚いて確認するが相手は「お父さんでしょ?もう少しで赤ちゃんに会えるよ!」とあくまでも明るい。呼吸を整えておいて正解だった。

つづく


たくさんの方々からサポートをいただいています、この場を借りて、御礼申し上げます!いただいたサポートは、今まではコーヒー代になっていましたが、今後はオムツ代として使わせていただきます。息子のケツのサラサラ感維持にご協力をいただければ光栄です。