みんな同じところにいるが崩されるとき

17日目(4月20日)

日にちが開けてしまった。実際は4月21日に書いている。

明日が毎月発行しているメールマガジンの担当の回なので、今日はその原稿を書こうと思った。思ったのだが書けなかった。
メールマガジンを書く時は、読者を意識する。読者がいったい今どんなところにいるのか、どんなことを思い、何をしているのだろう。そんなことを想像する。同時に私の心の中を今、一番占めているものはなんだろう。それを深めていってその核のところから言葉を発するようにしている。

新型コロナウィルスの感染拡大が起き始めてから、当たり前の日常が当たり前でなくなっている。その影響の出方は人それぞれで、テレワークを始めた人、一時的に仕事がキャンセルになって暇している人、事業の落ち込みがひどく経営が厳しくなっている人、社会システムを維持するために死に物狂いで働いている人、子供が休校になってストレスを抱えている人、等々。想像すれば想像するほど、何かひとつのメッセージに絞れなくなっていた。

結局、自分の今の日常の徒然を書いた、これまでの文章の中から校正して投稿をしたが、メッセージとしては薄いものになっていたと思う。

こう書きながら、私は普段、想像をするといっても、自分の当たり前の中の限られた中での想像しかしてこなかったのではないか、という疑念が湧いてきた。

なんとなく、みんな同じところにいる。と勝手に思い込んでいる。
今回のことで、わかりやすく違いが見えているけれど、この違いはそもそもの違いから起きていることだ。

最近、人は自分と同じようなものしか見えないし、見ようとしないのではないかと思い始めている。社会システムとして、同じような教育や生活水準の人が集まるようになっているのも一つの原因であるが、そもそも自然とそうなっていくのは、自分と同じようなものしか受け入れない、という性質があるからなのではないか。

本当に見えないのだ。
それを自分が思い知らされたのは、日本に貧困問題があると聞いた時だった。
最初聞いた時、正直、そんな貧困問題なんて社会問題になるほどあるの?あるわけないじゃない。
そう思ってしまった。

違うものが現れた時はとてつもなく脅威だ。

この間TVをみていて、田舎あるあるの面白い話があった。
田舎の人は、背広の人が村に現れると、大騒ぎになるのだそうだ。
とんでもなく悪い奴らがやってきた。気をつけろ!
見つけた村人から村中に知らせが入る。

背広の人は、東京の丸の内に行けば、当たり前の人だ。
背広の人たちしかいない。
背広の人は、田舎に行けば異常な人だ。
背広を着ている人なんていない。

みんな同じところにいる、その思い込みを持っていると、それがが崩されることは脅威だ。

今、私の中には、その見えないことをもっと見ないと、聞こえないようにしている声をもっと聞かないと、という声がある。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?