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理想のパノプティコンカフェ

喫茶店の選定には細心の注意を払う。店の中を覗いて入らないこともしばしば。

たとえば誰かの得意げなキーボード音から始まり、読書をするには暗すぎる照明、真冬とまがうほどの冷房設定温度、今にも落ちてきそうな天井の埃、肘をつくたび水平を保てなくなるテーブルなど、心配事は尽きないのだけれど、多くを求めているってわけでもない。

器にこだわった趣のある空間とか、店主がこだわっている自慢のコーヒーとか、(もちろん「コーヒー/業務用」と書かれた大容量パックから注がれる薄々コーヒーよりかは、腕の立つロースターが焙煎した豆を何か特別な道具で抽出した「至極の一杯」の方が飲みたいけれど)そういったことはさして重要ではない。

他者の監視というある種の緊張に晒されながら、誰にも邪魔されない放っておかれる空間と時間が確保できればそれでいい。

コーヒー一杯で何時間粘るんだと言わんばかりの店員と目が合うのは気まずい。けれど店員の目が届かない二階席は先生のいない教室みたいで不安だ。
客席が多いと隣が近くて集中できない。けれどお客さんが自分ひとりなのは荷が重い。


そんなわがままをおもうと、理想になるのはパノプティコン(全展望監視システム)型カフェだ。

パノプティコン:中央に高い塔を置きそれを取りまくように監房をもつ円形の刑務所施設。ベンサムが考案し,フーコーは管理システムをこれにたとえた。一望監視施設。万視塔。
(出典:三省堂 大辞林 第三版 )

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(Wikipediaより)


真ん中の丸い空間は一段上がって簡単な厨房とレジがあり、その中を行ったり来たりする店員を、さらに大きな円でぐるりと囲むようにして客席がある。注文を取る時には店員が円の中心から円周に向かって動き、会計のときには客がその逆の導線を辿る。

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店員は小さな円の中から、360度客を一望できる。全方向に視線が向けられることで、わたしは自分だけが注視されているわけではないと安心する。手を上げればすぐに気づいてくれる。
本物のパノプティコンと違うのは、客が見張られているようで、実は多勢である客の方が店員を見張っているような構図であることだ。
ぽつぽつと距離を保って円を描くわたしたちは各々に関心がなく、中心にある店員の存在によって、たくさんの中のひとりになることができる。


なかなか理想のパノプティコンに出会ったことがないのだが(そんなに探してもないけれど)、形状だけで見れば最も具現化されているのが、国立新美術館にある”ティーサロン”、サロン・ド・テ ロンドだ。

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(国立新美術館公式HPより)


しかし、建築家黒川紀章氏によるこの宙に浮いた逆円錐の上では、人々は美術館で目の当たりにした芸術についてを話し合う。何か別の大それた文脈が生まれてしまい、できれば一緒に円を描く人々は、ふらっと来る人種であってほしい。

代官山のモンキーカフェも近いけれど螺旋状の階段だし、渋谷のWIRED TOKYOは騒がしくて一緒に店員を囲んでくれそうもない。



もう全然関係ない話になるけれど、
海浜幕張のワールドビジネスガーデンにあるカフェテリアはやたらと天井が高くて、真ん中にはなぜだか西洋風のあずまや(「ガゼボ」というらしい)があっていい。
下北のfuzkueは案内書きが本のように分厚く、注文の多い料理店みたいで楽しい。
新宿三丁目のベローチェにあるような大テーブルは面白い。だれもが知らず知らずのうちに他人と大家族みたく食卓を囲んでいる。
休日の代官山蔦屋はたいてい旅行雑誌をかかえたカップルたちの席取り合戦が繰り広げられる。



それにしても、パノプティコンカフェはある意味では「最大多数の最大幸福」だな…。


長いのに読んでくれてありがとうございます。