自分自身の感動を見つけるということ

いままでカイジも黒沢も、そういったギャンブルとかヤンキー系はほとんど受け入れずに生きてきてしまったので、はじめて福本コンテンツに触れたのは映画カイジもしくは藤原竜也のものまねしかない。

そんな中、会社の同僚の机にふと立てかけられていたのが『福本伸行人生を逆転する名言集』である。その異彩さについ気になって、茶化しながらも開いたページでたまたま見つけたのが、南アフリカサッカーW杯を観戦している時に黒沢がふと気づいたこの発言だ。

感動などないっ!
あんなものに……
オレが求めているのは……
オレの鼓動 オレの歓喜 オレの咆哮
オレのオレによる
オレだけの……感動だったはずだ!
他人事じゃないか…!どんなに大がかりでもあれは他人事だ。
他人の祭りだ! (参照)

先日もラグビーのW杯があり、日本代表の躍進や開催地にリスペクトを送ってくれる各チームの選手・スタッフの行動に感動を覚えた人も多かったと思う。応援することやその感情を否定するわけじゃないが、ただその感動は自分のものなのか?と問いかける。

他人の行動を感情移入したものはあくまで借り物だ。もしそれがないのであれば自分が行動し、苦労し時間を使い、自身が観戦者ではなくプレイヤーとして感じたなにかを見つける必要がある。
「最近、感動したことはあるか?」と問うと、つい他人のことを聞かれているような感覚を受けてしまうことがある。映画を見て、スポーツを見て、ライブを見て。そういうことじゃない。ここで自分自身の体験を話せるような人になりたい。

昔、地元の友だちとフットサルをやっていた頃、いけ好かないチーム相手に負けていたときに、直接フリーキックで同点弾を叩き込んだことがあった。その時、衝動的に振り上げたガッツポーズは自分自身の感動だったと思う。南アフリカ戦のトライも、本田のFKも、アスリートの涙も。そんな日本全国を渦に巻き込むような感動も、この自分自身が生み出した「沸き上がるようななにか」にはかなわない。小規模な種火だが、これは自分の祭りだ。

ネットの拡がりでコンテンツも拡大を見せているが、最近気づいたのはYoutuberは僕らの代弁者だと言うことだ。ぼくらができないこと、言えないことを声高らかに宣言し、行動してみせることで楽しませてくれる。そしていつしかその何者かになれない自分は、他人の行動がもたらしたコンテンツ化された感動を見て、まるで自分の代替のように満足してしまうことがあることに気付かされる。

「テレビを見て育った俺達はいつの日か映画スターか、億万長者になれると思っている。だが誰もなれない。その現実に気づいて俺たちは心からムカついている。」―ファイトクラブ

これは何者かになれということじゃない。他人のものに満足するのではなく、どんなに小さなことでも自分自身が成した自分だけの感動を見つけていかなきゃいけないということだ。そしてその感動はシェアする必要のない自分だけ感じることができる、内から震えるような感情そのものだ。


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