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オッドタクシーというリアリズム。

※ネタバレ含みます。


オッドタクシーという動物のアニメが面白いというのは聞いていた。
ということで偶然見ることにしたのだ。

話の内容はすごく伊坂幸太郎感。

それぞれの登場人物の物語が一つに収束していく。
複雑に絡み合っていく。
その物語の動かし方、伊坂幸太郎そのものだ…。

言葉の応酬の速さは一昔前のアニメの台詞回しだった。
なんだかノスタルジーな感じだ。


この物語は緻密に練られている。

第一話からラジオから聞こえてくるお笑いコンビの「ホモサピエンス」のラジオでは、
『俺たちはホモサピエンス界で一番面白くない!』
とのたまうが、
?…そもそもホモサピエンスではなくないか???
というのが初見の感想だった。
哺乳類か何かと間違えたのだろうか?
と邪推もしたが、最後に合点したのだ。

このアニメ、実は初めから違和感の集合体であった。
あまりにも現実と同じように描くではないか。
何だったら地名まで想像に難くないくらいだ。
キャラクターがあまりにファンタジックなのに、それ以外があまりにもリアルだ。
マッチングアプリで美人局に引っかかった猿の悲しみも。
スマホアプリで廃人になり、その原因に復讐したい苛立ちという名の穴を広げる行為も。極限も。
そして幼少期にいじめられ対人恐怖症を発症した本人が未だに前を向けないことも。
なんでこんなにリアルなんだろうと。

中年動物の彼らの台詞回しはなんとカタルシス効果を齎すのだろう。
私はそれに釘付けになると同時に、動物のアニメのキャラクターのファンタジーさが何とも言えない調和を生み出すようだと思った。

言葉の一つ一つが私のギリギリ学んだラインの世代の話だったから、どれもグイグイと押してくるのだ。
でもそれだけに現実であった事や現実そのものを赤裸々にしたこのアニメは、登場人物を動物にしなければ直視することすら辛い一面も表したように思う。

かん‐かい〔クワン‐〕【寛解/緩解】

[名](スル)病気の症状が、一時的あるいは継続的に軽減した状態。または見かけ上消滅した状態。

そして主人公の謎が解けたとき、寛解した主人公は、やっと世界を見る。
動物として人間を認知していた主人公は、
人間を人間として認知できたのだった。

というお話。


この話、それで終わらせられない理由が私にはある。
この話は実体験にそう変わらないからだ。

本題

発達障害を持つ者全てとは言わないが、
我ら発達障害者は人間を理解することが基本的に困難だ。
元々持ち合わせたものは異なるようだと。

それにより、家族から疎まれたり、貶されたり、殴られたりするのだ。
だから生きるために人の表情をよく見るのだ。
声音をよく聞くのだ。
彼らの身体の動きやいびつさをすぐに感知するように、幼い頃から訓練されているのだ。

だから私はいつでも人間を動物として見ているんだ。
動物として観察している。
私は視覚優位で聴覚的に伝えられることはほとんど聞き取れない。
頭のメモリーに入っていかないという特性を持っている。
だから眼で見た人間から言葉を選ぶ。
文字通り『視て話をする。』
声は声音で判断する。
声音は雄弁に貴方を語る。

そんな一挙手一投足を見てコミュニケーションを理解し、対象を理解する。
だから、私たちが見えている世界は、

「オッドタクシーそのものなんだ。」

逆に動物と会話ができる。
なぜなら言いたいことが人間と同じレベルで分かるから。
逆に私が人間不信を強烈に発動している時は人間の眼を見れないが、
同時に猫や犬の眼も見れない。
彼らは意思の強さが人間と同じだから駄目だ。

オッドタクシーは
『私の世界』が『人間と異なる世界』であるということを明確に、端的に表してくれた、初めての作品だ。

人間の雑音が雑音であることも改めて教えてくれたし、
動物の人物には理解の解釈が振られていることも。

ただ単に面白いアニメだったというには惜しすぎる。
とんでもないアニメであった。

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