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魚と雨乞い

引用RTにリプしまくった後で、「あ、これ通知行きまくってめっちゃ迷惑なヤツなのでは・・・・?」と気付く。一応コピーとって消したけど、もう一度ツイートするのもどうなんだろなと思い、ここで供養することにしました。

※その後、実験に付き合って下さった方のお陰で「引用RTへのリプは通知されない」ことが分かりました。空騒ぎ!

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そういえば、数年前に母から「さとこは発達障害がある割に『暗黙の了解』をよく知っているのはなぜ?」と聞かれたことがある。本をよく読んだことが大きいのかもしれない。「私には見えていない『代入すべきXやY』が世の中にはあるらしいぞ」ということを、小学校高学年頃から感じていた。
さとこ
@ame_satoko
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23m
私は私の認知機能や学習を全面的には信頼していない。私の理解では辻褄が合わないと思う時「そこには何か見落としがあるのだろう」と考えていて、それは「社会的な何か」とか「普通の感性」とか「一般的な挙動をする心」とかである可能性が高いということは、子供の頃から薄々感じていた。
さとこ
@ame_satoko
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16m
人が見せる色々な顔、Aちゃんの言う事が状況に合わせて変わること、Bちゃんが知っている事実を言わなかった不思議、嘘が共有されて真実になる瞬間。そういった様々な「起こっていること」からすれば見えない法則があると考える方が自然で、皆はそれを知っているようで、私はそれを知らないようで。
さとこ
@ame_satoko
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9m
皆には「自然に覚えられること」「見れば分かること」が私には分からないようで、それが分からないと凄く困るらしいということは分かって途方に暮れた。「分からないということはありえない」らしく、分からないということは、嘘、怠慢、無神経、自己中とされるらしい。「分かる」以外の道がない。
さとこ
@ame_satoko
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4m
人の心や社会というものが私には分かっていないようだと小学生で感付いたものの、私は、それをしばらくの間「天気のようなもの」だと思っていた。雨が降ったら傘をさす。降りそうなら洗濯物は部屋干しにする。日がさせば植物がよく育つ。何故そうなるかは分からなくても、関連を学んで予測し対応する。
さとこ
@ame_satoko
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1m
高校生になると、どうやらそれだけでは上手くいかないらしいと気付いた。天気は「私の心」を気にしないが、人は「私の心」があるかどうか、本当か嘘か、何を感じ何を思っているかをすごく気にする。「あぁ、そうか、だから雨乞いがあるのか。」と思った。心に働きかけることで状況を変えようとする力。

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私は意識していないと「何もしていなくても人は居るだけで社会に参加していること」「空気は読むだけでなく読まれるものでもあること」「私は人の心に働きかける必要があること」「人は私の心に働きかけようとしていること」などを忘れてしまうことがあります。

TOPの写真はうちの水槽で、真ん中にいるカメラ目線の魚はオトシンクルスというコケなどを食べる魚です。数匹いるオト達は、人間が水槽に近づいても水面に上がってきたりはしません。コケやタブレットをつつく生き物なので、人間が投入するエサの争奪戦に素早く加わる必要がないためです。

他の魚たち(グラミー・プラティ・ネオンテトラ・メダカなど)は素早く水面近くで待機します。エサやりになれた池の鯉みたいに人間のいる方向に集まってわちゃわちゃします。

多くの人間は、「自分がそうであるように相手にも心がある筈で、それによってあなたと私の関係、あなたの振る舞いが決まる筈。」という信念があるのですよね。多分。だから、魚にも、機械にも、天気にも心を見出すのだろうと思います。

家の水槽のオト達は、人が近づくことは脅威ではないことを知っているので逃げません。別に得もしないので寄ってくることもありません。最低限の警戒はしているので、こちらをじっと見ています。その様子を「人の心フィルター」を通して見ると「オトちゃんはマイペースだなぁ。」という印象になります。

他の魚達は「人間が近づくとエサが降ってくる」と知っています。わちゃわちゃと寄ってきます。「人の心フィルター」を通して見ると「エサをくれとねだっている。かわいいなぁ。」ということになります。彼らが心を理解して働きかけているように感じます。でも多分、彼らはもっと機械的に、人が近づくという条件を判断して最適な行動をとっているだけです。

そう考えると、私が「心」をもっていることは、人が私の心に投影することを邪魔しているのではないか?という気もしてきたりして、そういう意味では私の心システムはあまり私の利益にはなっていないのかもしれないな、なんて思うことがあります。魚には心がないから、機械には心がないから、自由に解釈を投影できるのかもしれないな、と。

本当は彼らにも心があるのかもしれないけれど、人間が感知できるようなものではないから、行動を自由に解釈できて「分かった気持ち」になれる。

私は魚のように賢くないから、心とか考えとかを抱えて、下手なコミュニケーションをとっている。それはそれでいいのだろうと思いつつ、私は努力の方向を間違っているんだろうな、とも思うようになりました。できるだけ持続可能な負担レベルで、社会や人の心に歩み寄っていきたいなと感じるようになりました。

コウの影響かもしれません。私がしてきた適応の努力を、コウにさせてよいのか。それは一生続けられる行為なのかと考えると、かつての私のようにやみくもに「定型発達を理解するように努め、定型発達のようにふるまう」ことで適応しようとすることは、生存戦略として適切だったとは言い難いのではないかと。

私にとって持続可能な方法で、社会と仲良くやっていく方法って、あるのかな。定型発達者とされる人の心を大切にしつつ、私が削れない方法ってあるのかな。コウに教えること、これでいいのかな。彼の脳内に残ってしまう親の声、苦しくさせない言葉はどんな言葉なんだろう。

コウが物心ついてから、ずっとそんなことを考えているような気がします。

コーヒーを飲みに行ったり本や苗を買ったりすると思います。