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社会性は多分必要〜anagonの日記 2/25〜
はじめに
今日は昼にあった予定がなくなったので、家でのんびりしてました。
特に何もしてない気がします。
夜から動き出しました。
①今日あったこと
1.メルカリ売れた
メルカリで母のサンダルが売れたので、それを郵送してました。
メルカリはいい感じに売れるのでとても助かります。
2.ゼミ資料作った
明日のゼミ資料作るの忘れてました。結局情操教育だけの観点だと弱いなあと思ったので、STEAM教育の観点も混ぜて、いい感じにまとまったのでよかったです。
3.えなと電話した
カンボジアワークショップ始まる頃のえなから電話がかかってきました。楽しくやってるようでよかったです。
とりあえず主に僕が愚痴ってました。
②今日思ったこと
1.比較って難しいよなあって話
僕だけじゃないと信じたいんですけど、自分よりすごいと思う人を見るとその人の粗探しをしてしまったり、逆に自分より劣っていると思う人をみるとその人を見下してしまったりします。
とても愚かだなあと思うのですが、そもそも比較ができる条件ってかなり限られているなあとそこから思いまして。
要は条件が揃わない限りは、比較は非常に愚かな行為なのではないかなと思いました。
小学校でもやることですけど、
例えば二つの物質の変化の対照実験をしたければ、それぞれの物質の量や使用する器具、環境は基本的に揃えなければならない。
人間を対象にした対照実験でも、例えば二つのグループの英語の能力値を計りたければ、テストの内容や、実施する時期、人数、データをとるための指標などは揃っていなければならない。
とにかく基本的に条件はほぼ揃えていないと対照実験は成立しないわけです。
そう思うと、比較が意味を持つのはそういう状況でしかなくて、様々な異なる関数がある状態では比較など対して意味もないという話。説得力に欠けるし決定打にも欠ける。
比較なんてそれくらいシビアな状況じゃないとできないんだから、日常的にする比較なんてほとんど意味がない。
似たような環境から生まれたデータ、似たような環境で育って似たようなマインドを持つ人の話というのは、比較するのではなくて、参考にするのが一番いいわけです。
逆に自分と似つかない、自分が実施しているものとは条件が異なるものからのデータや話なんかは、今度似たようなシチュエーションになった時に参考にすればいいだけで、今の自分やプロジェクトに当てはめる必要は必ずしもないし、それで比べて落ち込んだりする必要は全くないはず。
それでも比較をしてしまうのは、きっと自己防衛なんだろうなと思います。
比べて負けとか勝ちとか認めれば、これ以上自分のところに侵食されないですむし。
結局のところ、今ある条件の中で、どうベストを出すか、または狙った結果を求めにいくのかが大事なのではって話です。
2.適材適所が大事なのかもなあって話
少し上の話とも被りますが、「なんでこんなことができないんだろう」とか誰かに思ったら、まあその時点で意味のない比較を自分はしてしまっていて。
今まで得てきた経験や知見は、その人それぞれで千差万別で当たり前で、そこから生まれる能力やできることも自分と違って当たり前なんですね。
輝けるステージというのは人それぞれに用意されていて、それは誰かから見れば全然魅力的じゃないかもしれない。
でもその人が輝けるなら別にいいんです。とやかくいう人はほっといてそこで輝けるように生きていけばいい。
かといって、じゃあ全ての人の言動を「その人はそういう人だから、とやかくいってもしょうがない」とみなしてしまうのは、ちょっと個人的には違うなあと思っていて。
多分、社会性に欠けている言動はやっぱりどうなんだろうなって思います。
要は、責任のある立場でありながら、無責任な行動で誰かに迷惑をかけたり、公共の空間でモラルに欠ける言動をしたり。
人は一人では生きていけないので、生まれた時点で必ず社会の中で育つことが義務付けられている。だから社会性というのは自分が生きていく上で最低限持つべきものだと思います。
社会性を持たない無責任な言動だけはしないでいようと思います。
終わりに
自由を履き違えないように生きようと思います。
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