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【赤報隊に会った男】④ 第3の接触~「統一教会は僕らの敵だ」

前回までの記事で、鈴木邦男がかつて週刊誌「SPA!」の連載「夕刻のコペルニクス」で「告白」した、赤報隊との2度にわたる接触について紹介した。しかし、話はこれだけで終わらない。
彼は連載の中で、さらにこんな文章をつづっている。

阪神支局で朝日の記者が殺傷され、しばらくしたころだった。神田の喫茶店で本を読んでいた。その時、店の電話で呼び出された。ここにいるのは誰も知らないはずなのに変だなーと思いながら電話に出た。ギクッとした。例の男だった。また仲間に僕を尾行させていたのだろう。

「SPA!」1995年10月11日号「夕刻のコペルニクス」第49回

赤報隊からの抗議電話

この電話で謎の男は鈴木をなじる。
「最近、鈴木さんは『あいつらは右翼を偽装している』とか『統一教会だろう』なんてマスコミで発言していますよね。自分の嫌疑を晴らそうと必死なのはわかりますが、ヒドイと思いますよ。統一協会なんて僕らにとっちゃー、敵ですよ。確かに僕らは人殺しですよ。しかし愛国者だと思ってます。それに鈴木さんの本を読んで僕らは愛国心や右翼思想に目覚めたんですよ!」
こんな言葉を浴びせてきたというのだ。

赤報隊からの電話の内容を記した「夕刻のコペルニクス」第49回

連載に記された電話の内容はこれだけだ。この抗議に対して鈴木がどう応答したかも書かれていない。
ちなみに鈴木は連載の中で、この電話を根拠の一つとして、当時メディア関係者の間で取りざたされていた「赤報隊=統一教会説」を否定している。

それでは、この電話の話が事実だとすれば、その時期はいつなのかという問題を考えてみよう。
例によって、本文中に日時は明記されていない。
鈴木は朝日新聞阪神支局襲撃事件(1987年5月)から「しばらくしたころ」だと書いているが、「しばらく」というのが数週間なのか数か月なのかは判然としない。
謎の男が「中曽根を全生庵で狙う」と予告した〈第2の接触〉も、やはり阪神支局襲撃事件の後の話だから、この電話とほぼ同じ時期だった可能性もある。
一体どちらが先の出来事なのか判然としないが、とりあえず、この神田の喫茶店での電話を〈第3の接触〉と名付けておくことにする。

以上、これまで紹介した〈第1の接触〉~〈第3の接触〉が、「夕刻のコペルニクス」で鈴木が明らかにした彼と赤報隊との接点である。
ただし、この連載にはもう一つ、赤報隊に関する見過ごせないエピソードが出てくる。それは、鈴木の盟友だった大物右翼・野村秋介(1935~1993年)も生前、赤報隊らしき男たちに会っていたという話だ。

野村秋介と赤報隊のテロ談義

野村秋介。
鈴木より8歳年上のこの活動家は、必要とあらばテロも辞さないという「武闘派」として知られた人物である。実際、政治家・河野一郎邸焼き討ち事件(1963年)や経団連会館襲撃事件(1977年)を起こして計18年間服役した経歴があり、右翼の世界ではカリスマ的な存在だった。
しかし、何といっても彼の名前を特別なものにしたのは、その壮絶な最期だろう。
1992年(平成4年)の参院選に出馬した野村は、週刊朝日が選挙中に自らの政治団体「風の会」を風刺イラストで揶揄したことに憤り、翌1993年10月、朝日新聞東京本社に乗り込んで社長と面談。その際、社長の面前で拳銃自殺を決行し、世間を驚かせた。
朝日新聞と因縁浅からぬ右翼という意味では、116号事件の思想的背景を考えるうえで外すことのできないキーパーソンとも言える。

野村秋介の自決とほぼ同時に出版された著書「さらば群青」(二十一世紀書院)

この野村秋介と赤報隊との接点について、鈴木は「夕刻のコペルニクス」でこう書いている。

野村さんとは赤報隊について何度も話し合った。ある時、フッとこんなことを言った。「やっぱりあいつらしかいない。冷たいけど澄んだ思いつめた眼をしていた。俺にはピンときた」

「SPA!」1995年8月2日号「夕刻のコペルニクス」第40回

連載によると、野村は生前、「赤報隊に一度だけ会った」と周囲に語っていたという。
その相手は3人組だったとも5人組だったともいわれているが、有力なのは5人組説。鈴木は連載の中で、野村秋介と謎の5人組との接触を〈野村・赤報隊会談〉と名付け、まるで見てきたかのように描いている。

野村・赤報隊会談を描いた「夕刻のコペルニクス」第41回

その会談では、先の戦争は侵略戦争だったとする朝日新聞の論調は許せないということで、両者の意見が一致。ただ、野村は「朝日をやるならばトップをやるべきだ。君たちのように無差別に末端の記者を殺すのはよくない」と赤報隊をたしなめたという。
それに対し赤報隊は、朝日の論調を変えさせるためには無差別で記者を殺す必要があると反論し、喧々諤々の末、野村は説得をあきらめたという。

野村の自決が赤報隊を止めた⁈

鈴木はさらにこう記す。
野村は後年、朝日新聞社長を前にして、あえてテロに走らず、銃口を自分に向けて自決した。これによって赤報隊に「もうテロはやめろ」とメッセージを送った。それが伝わったから赤報隊のテロが止まったのだ、と。
ここまでくると、かなり鈴木の主観が入った物語という印象を受けるが、もちろん重要なのは野村が本当に赤報隊に会っていたのか否かという事実関係だ。そして、仮に事実なら、いつどこで会ったのかという点だ。
しかし残念ながら、具体的な日時や場所はやはり何も書かれていない。あえて時期を絞るとするなら、朝日新聞阪神支局襲撃事件が起きた1987年(昭和62年)5月から野村が拳銃自殺した1993年(平成5年)10月までの間とするしかないだろう。

鈴木邦男自身の3度にわたる赤報隊との接触と、この〈野村・赤報隊会談〉。いずれも、にわかに信じがたい出来事ばかりだが、これらの話を披露した後、連載「夕刻のコペルニクス」赤報隊編は予想外の結末を迎えることになる。(つづく)

つづきはこちら→【赤報隊に会った男】⑤ トーンダウン

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