偶有性の森で

 何から書き始めればいいのか。
そうだまず偶有性がある。偶有性とは「存在することもしないこともありえるものの在り方」(Wikipediaより引用)のことを言う。要は「ありえたかもしれないしありえなかったかもしれない」事象のことだ。在る世界がoneだとすれば偶有性の世界はanotherである。シュレディンガーの猫に例えるなら「生きている猫」が世界Aだとするならば「死んでいるかもしれない猫」が偶有性Bである。偶有性という言葉は古代ギリシアの哲学者アリストテレスが提唱した。私の思想は全て偶有性を巡っている。(あと稲垣足穂とジャン・ジュネとミシェル・セールも)私が生きている世界とありえたかもしれない世界(偶有性的世界)はどこかで重なっているのだろうか?例えば私は今こうしてスマホを使ってnoteに記事を書いているがもし私がnoteに記事を書かないでトイレに行っていたらどうだろう。現在と過去と未来はほんの少しだけ変わっていたんじゃないだろうか。もう少しだけ喩え話をするがある有名なサッカー選手がいる。その選手は潔癖症でトイレに行ったあと必ず手を洗ってハンカチで手を拭いていた。そのサッカー選手(になるはずの青年A)はある日いつも持ち歩いているハンカチを家に忘れてきてしまった。(としよう。これはあくまで仮定の話)するとそのサッカー選手(になるはずの青年A)は仕方がないのでトイレットペーパーで手を拭いた。舌打ちをしながら。そのトイレットペーパーで手を拭くという行為(あるいは舌打ち)をした所為でそのサッカー選手になるはずの青年Aは銀行員になっていたらどうだろう。これは偶有性が介入したと言えるのではないか。もちろんこれはあくまで仮定の話でありそのサッカー選手はその日もハンカチで手を拭いたのでありだからこそサッカー選手はサッカー選手になりえたのだがそういう些細でギリギリな偶有性が介在して世界を変えた事例というものがあるかもしれない。同じようなことを考えた人はいた。思想家のブレーズ・パスカルだ。パスカルには「クレオパトラの鼻」という有名な箴言がある。引用すると「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史も変わっていただろう」(歴史ではなく地理とする訳もある)クレオパトラの鼻が例えばあと2cm低かったなら、(その偶有性的世界では)クレオパトラの婚約者は別の人になっていて起こったはずの戦争や革命も起こらなかったかもしれない。こういう事象を「歴史にIFはない」と一笑に付すのは簡単だ。しかし同時に心理学には「反事実的思考」という用語がある。反事実とは文字通り「事実に反していること」を意味する。「もし私が〜しなかったら/したら〜だろう」という人間の推論や思考傾向を指す。「もし私がゲーテの色彩論を読んでいたら私は色彩学者になっていたかもしれない」とか。この世界は無数の仮説やanotherやIFによって構築されている。それに考えを巡らせるのも面白いかもしれない。

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