見出し画像

「あなたのペットの声聞きます」

 私は評判の霊能者だった。
だが、世の中が目に見えないものの存在を軽視する様になって、私の仕事は減った。
そこで私は折からのペットブームに乗じて、「あなたのペットの声聞きます」を始めた。
 私はこれまで亡くなった人々の声を聞いてお金を頂いていたが、この新しい仕事は生きたペットの声をきく仕事だ。これまでとは全くわけが違う未知の世界だ。犬や猫、ウサギにハムスター、鳥、、、始めた当初は生きたペットの声など実はぜんぜん聞こえなかった。それでも私の霊能者としての評判とノウハウが多くの客を呼び、皆が喜んで帰って行く後ろ姿を見るたび、まったくの当てずっぽうや思いつきでやっているのではないと自信が持てるようになった。
亡くなったペットの声を聞いて欲しいという客も来たがそれは丁重にお断りした。やってはみたが亡くなったペットの声は聞こえなかった。
そしてそれは飼い主をとても落胆させたし、私をとても疲れさせた。
.
 ある日私が外出から戻ると玄関の前に見知らぬ男女が立っていた。
男は30代ぐらいだろうか。
アイロンのきっちりかかったシャツにスラックス、髪を短く整えていて髭も綺麗に剃ってある。清潔な印象だった。手に大きめの紙袋を大事そうに抱えていた。
女は男の母親、いや祖母だろうか。
小柄で、薄くなった白髪を丁寧にまとめ後ろで小さく結っていた。
品のある静かな女性といった印象で私が近づくと小さく会釈した。
「何か御用ですか?」
と私が男に訊ねたとき、紙袋がガサっと鳴った。
驚いて後退りした私に男は
「ペットの声を聞いて頂けると言うのはこちらでしょうか?」
と聞いた。
「そうですがご予約を頂いていますか?あいにく予約制になっていまして」
「すみません。存じていましたがどうしてもタロ吉の話を聞いて頂きたくて」
「タロ吉?」
男は紙袋を覗き込んでそっと手を入れ緑色の苔の生えた30センチぐらいのゴツゴツした石を取り出した。
「ひぃーっ」
男が取り出したのは石ではなくトカゲだった。
私は大の爬虫類嫌いで、見るだけで冷や汗が出て口がカラカラに渇き、息ができなくなる。
私の様子を見て祖母らしき女性が男の腕にそっと手をおいた。
「すみません。お嫌いでしたか」
男は悲しそうにタロ吉なる苔むした石のようなトカゲを紙袋にしまった。
ゼイゼイと息を鳴らしながら、「ええ、ええ」と喘いでいると、男の祖母らしき女性が私の背中をさすった。痩せた老女のしかし温かい手が私の荒くなった呼吸を穏やかにしてくれた。
「もう大丈夫です。ありがとうございます。わかりました。タロ吉くんの話をききましょう」
自分の口から出た思いもよらない言葉の響きを、私は不思議な気持ちで聞いていた。
.
 応接間にふたりを通し台所でお茶を煎れ戻ると男はソファにもたれて腰掛けていた。
疲れた様子でさっきよりずいぶんと老けて見えた。
祖母らしき女性は男の左側に少し離れて小さく座っていた。
そしてタロ吉がふたりの前のテーブルの上にのっていた。
私を見て男は「ああすみません。タロ吉が苦しそうだったのでつい」
と、慌ててトカゲを紙袋に戻そうとした。
「大丈夫ですよ。そのままで」
不思議なことにトカゲを見ても今度はパニックにならなかった。
それどころか穏やかな調子で、「じゃあタロ吉くんの話を聞きましょう」と言った。
タロ吉はテーブルの上で動かずじっと目をとじていた。
瞼には細かい皺がたくさんあった。
と、タロ吉が目を開けて私を見た。
タロ吉の目は体のわりには小さく、しかしその瞳は黒々としていた。
黒々とした瞳は底無しの深い闇のようだった。
男が何か言っている。
しかし私はタロ吉の瞳に捕らえられ、男の声はさっぱり聞こえてこなかった。
タロ吉が目を閉じると不思議とからだがゆるんで、まるでスイッチが押されたように、
「わかりました。タロ吉くんをお預かりしましょう」
とほとんど自動的に言っていた。
男は勢いよく立ち上がり、
「ありがとうございます。次の日曜日には必ず迎えに来ます」
そう言って私の手を強く握った。
女性は目を細めて私を見ると深々と頭を下げた。
この時、蛍光灯の下で見た女性はさっきまでの柔らかな印象とは違って厳しく険しい目をしていた。
 男は何度も日曜日には必ず迎えに来ると言って帰って行った。
ふたりの後ろ姿を見送りながら、なぜ私はタロ吉を預かることになったのだろう、と思った。
私にはまったく思い出せなかった。
.
 男がタロ吉を迎えに来ると約束した日曜日になった。
だが夕方になっても夜になっても男は来なかった。
幾度か電話をしてみたが誰も出なかった。
それから一週間が経ってもひと月が経っても男は現れず、電話をしてもただ呼び出し音が鳴るだけだった。
警察に届けることもできただろう。しかし私はそうしなかった。
なぜなのかはわからない。
もともと私は爬虫類が苦手であったし、しばらく一緒に過ごすようになったからといってタロ吉に愛着が湧いたわけでもない。
ただ、私はいつも傍にタロ吉の存在を感じた。
私のところに来る犬や猫の飼い主たちのように、ペットは家族だ、子供のようなものだ、と言って溺愛している人たちにとっての存在とは全く違う感じを。
タロ吉がいない部屋で過ごしていても、外出している時でさえも、私は自分を覆う何かを感じてはっとする。それは何だろうと手繰ればタロ吉に辿り着いた。タロ吉の存在が、タロ吉そのものが、そばにいようがいまいが常に私を覆っていた。それは私にとって不快なものではなかった。むしろごく自然で、何か懐かしい感じさえしていた。
.
 三年ほど経ってとうとう私はタロ吉を飼ってくれるひとを探そうと思い、事務所に張り紙をした。トカゲと言えども、愛情を持って可愛がってくれるひとのもとで暮らすのがタロ吉にとって幸せだと思ったからだ。
あの男がタロ吉を捨てて行ったとはとうてい思えなかった。
何かやむに止まれぬ事情があってのことだろうと。
だがそろそろ、男が迎えに来るのをあきらめる時期に来ているのかもしれないと思った。
 張り紙は客の関心をひいた。中には無類の爬虫類好きという客もいて親切にも飼い方を指南してくれた。でも誰一人としてタロ吉を飼いたいと申し出る客はいなかった。
 ある日、犬の話を聞いて欲しいとやって来た客が張り紙を見ていた。
「どうですか?大人しいから犬がいても大丈夫と思いますよ」と私は笑って言った。どうせいつものごとく、ただ眺めているだけに違いない。すると客はタロ吉を見てみたいと言った。
私はタロ吉を連れて来て応接室のテーブルに乗せた。
客はしばらくじっと見て、「一緒に暮らすと似てくる、と言いますが、タロ吉くんはあなたに似ている」と言った。
「私にですか」私は驚いて少し大きな声で言った。
「お気を悪くしたらすみません。でも何かこう、なんとなくですが」と客は言葉を濁した。
私はあらためてタロ吉を見た。
タロ吉が私に似ている?
ふと目を閉じているタロ吉の深く細かい瞼の皺が、あの時来た老女の顔と重なった。
と突然、私は遥か昔の懐かしい記憶の中にその顔を見つけた。
クローゼットの奥底の、もう何十年も開けていない段ボールの埃を被ったふたを開き、黴臭くなった幾つものアルバムの中から色褪せた赤いビロードのアルバムを取り出す。黴の匂いにむせそうになりながら黄ばんだモノクロの写真が丁寧に貼られたページをめくっていくと、私が生まれた家の洋間で撮った写真がある。
幼い日の私を笑顔で抱く母。父に支えられながら私を抱く姉。そしてセルフタイマーで撮った家族の写真。
そう、その写真の中に彼女はいる。軽く微笑んだ父の頭右上の、額に入れられた写真の中で、何かを大事そうに抱えている彼女。
それは何だったか。すべてが鮮明に思い出されるのにそこだけが空白だ。私は立ち上がり部屋に客を残したまま、クローゼットに向かった。
 赤いビロードのアルバムはさっき頭の中で取り出したようにクローゼットのダンボールの中にあった。
目的の写真を求めてページをめくっていく。糊が剥がれて写真が手元に落ちてくる。家族思いで、几帳面な父が一枚一枚丁寧に貼った写真。何十年も放っておいたのに急に愛おしく思えて、破けないように慎重に、でも急いでページをめくっていった。
私にはあの写真がどのページのどこにあるのかさえもわかっていた。
いや、わかっていると思っていただけなのか。写真はそこにはなく、いくら探しても見つからない。勘違いかもしれないと、他のアルバムの中も探したが見つからない。もう一度赤いビロードのアルバムを、さっきよりも少し乱暴にめくっていると、背後に気配を感じた。振り向くとそこにさっきの客が立っていた。
私は驚いて「あ、すみません。お待たせして。すぐにワンちゃんの話を」と言いかけて客の腕の中にタロ吉がいるのに気がついた。
「タロ吉」
私は改めて客の顔を見た。
「やっと思い出してくれたんだね」
と客は言った。
「何も思い出してはいない」と私は心の中で強く呟いた。
それはとても恐ろしい事だと瞬時にわかったからだ。
私は開けてはいけない扉の前に来てしまったようだ。
これからどうすればいいのだろう。
とぼけて何事もなかったように、男の犬の声を聞いてお終いにするか?
だが、ここまで来てしまってはそんな事ができるはずはない。
私は恐る恐る男を見上げた。
そこに男はいなかった。そう、もう男のいる必要もないのだ。
ただ私がやるべき事があるだけだ。
それは今一度、アルバムを開いて目的の写真を探すことなのだ。
そして、そこにある真実を知ることなのだ。いや、ついさっき理解したことを確かめるだけだ。
手が、自分が見てもおかしいくらいに震えている。
震えてページがめくれない。
このまま永遠にその写真に辿り着かないで欲しい。
さっきはあれほど探していた写真がもうどこかへ消えて無くなっていて欲しいと、思った。(了)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?