見出し画像

レンタル耳

 ある日私は家に耳を忘れた。
駅の手前の踏切でそれに気がついた。
この何日か今日の会議の準備であまりに忙しく、今朝も歩きながらスマホでLINEをチェックしていてやっと気がついた。
遮断機の音が聞こえなかったのだ。
これから家に取りに帰るか、それともこのまま会社に行くか。
寝る時はいつも耳を外す。
つけたままではよく眠れない、が、外すんじゃなかった。
ああ家に帰っていては間に合わない。
仕方なくいつも乗る電車を見送り、早朝からやっているレンタル耳店に行くことにした。
 店に入ると若い男の店員が愛想良く迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。おはようございます。修理ですか、レンタルですか?」
「おはよう。これから仕事なんだけど耳を家に忘れて、、時間がないから、あ、これで」
私はすぐ目の前にあった耳を指差した。
「え、あのぉそちらは修理を承っている耳で」
店員が何やら言っているが、私にはさっぱり聞こえない。
当然だ。耳を忘れたのだから。
「ああもう時間だ。これ借りるよ」
私は耳が並んだショーケースの上にお金と名刺をおいて耳を掴むと
「また夕方に来ますから」と言って走って駅へ向かった。
 電車に乗り込むと慌てて耳をつけた。
ああ、よかった。どうやら間に合いそうだ。
と、耳に違和感を感じて地下鉄の窓に映る自分の顔を見た。
サイズがちょっと小さかったかな。
耳の色も白っぽいし顔の色とあってない。
女性用だった?まあいいか。
とその時、
「ちょっと聞いてるの?」と声がした。
「ねえ、あなた聞いてる?聞いてるって言うけどいつも聞いてないじゃない」
え?
「私に何か言いましたか?」
私は振り返り後ろに立っていた女性に言った。
女性は一瞬驚き、
「何も言ってませんけど」と憮然とした表情で言った。
「すみません。ごめんなさい」
と再び「さっきも言ったじゃない。何度言えばいいの。あたしの話なんてくだらないって馬鹿にしてるんでしょ」
いったいどうしたんだ。
この耳故障しているのか?
「会議があるからって言うけど聞いてないのは今日だけじゃないわ。昨日だって、おとといだって、ううん、去年もその前も、ずっとよ」
どこかで聞いたような、、、
「あっ」と思わず大きな声が出た。
後ろの女性が私を睨み、まわりの乗客がいっせいにこちらを見た。
妻の声だ。
そういえば耳が故障した、と言っていたかも。
妻は口癖の様に私が自分の話を聞いていない、と言う。
またか、と私は思い終いには面倒くさくなって適当にあしらう様になった。
私は電車の窓に映る自分の顔についた妻の耳を見た。
初めて見る女の耳のような気がした。
最近は顔さえもよく見なくなっていた。
その時、すれ違った対向車の明かりに私の顔はかき消され電車はブレーキの音をヒステリックに響かせながらカーブを曲がり始めた。
満員の車内で立っている乗客たちが必死の形相で吊り革に手を伸ばし、ブレーキの爆音と揺れに体をねじりながら耐えている。
この耳の先はどんな顔だった?どんな髪型だった?
「ねぇ、聞いてるの?」
顔のない妻の声は私をずっと責め続けていた。
(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?