父親の話
このnoteにおいて、私は父親の話題をあまり出していない。noteだけではなく普段も父親の話などほとんどしない。話すこともない、とずっと思っていたが、そういえばもうすぐ父の日だなと改めて書いてみることにした。
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「お父さんとは連絡はとってるの?」
私の両親が離婚していることを話すと、結婚して子供がいる男性には必ずと言っていいほどこう聞かれる。自分が離婚した場合を想像するのだろうか、と勝手に思う。
「全然連絡とってないんですよ。」とだけ答えるが「もう死んだものと思っています」というのが正直なところだ。
私が高校2年生の時に母の家族の持ち家だった実家から父親が小さな荷物を持って出ていく姿を見て何も感情が生まれなかったと言えば嘘になるが、その時点で私は父親が金にだらしなくて借金を作っていたことも、女とちょろちょろと遊んでいたことも知っていた。自分の部屋で母親ではない女と電話しているのを子供に聞かれるような稚拙な男だった。
父のそういう面が見え始めた頃私は中学生で「母にはバレないようにやってくれ」と願うほどには冷めていたが、私がもっと幼い頃に生じた父親の変化は後の私に強い影響を与えた。言ってしまえばトラウマだ。
それまでは一人っ子の私を母に比べて甘やかしてくれていたし、私もただ優しい父のことが好きだった。とはいえお使いと言われて一人で煙草を自販機に買いに行かされたり、ドライブと言われてパチンコ屋に連れて行かれたり今となっては呆れることばかりだが、それらがおかしいことにも気付かないほど幼い私にとっては優しい父親だった。
しかし私が10歳くらいの頃から父の母への愛情が消えていくと同時に私への興味や愛情がなくなっていくのが手に取るようにわかり、それは例えようのない恐怖だった。絶対であると信じていたものがある日から突然なくなる。どうしたらいいのかわからない私は、媚びることを選んだ。それしかできなかった。振られそうだとわかって男にすがる女のようだった。
両親が離婚した後の高校、大学、社会人になりたての私は父親のように愛してくれる男性をずっと探していた。親子でもない男女において絶対の愛情なんてあるわけがないのにそれを探し続けた。無条件に愛してくれない人は自分からすぐに手放した。そうしなければ元々ほとんど消えていた自尊心が吹き飛んで狂ってしまいそうだった。父親で失った自尊心を満たそうとしていたと今ならわかるが当時はとにかく、わけもわからずただ苦しかった。
私が20代半ばの頃に父方の祖母が他界した。母親が「葬儀行く?どうする?」と判断を委ねてきたが成人式以来何年も父親に会っていなかったしそうは言っても私は祖母と血がつながっているしと思い、行くことにした。
「パパの彼女も来るからね。」と母に言われて一瞬意味がわからなかったがそんなもんかとその時は特に気にも留めなかった。「彼女って何、籍は入れてないの?」とは聞いたかもしれない。
東京から新潟まで新幹線に乗り、そこからさらに鈍行に乗り継がなければならないようところが斎場だったのだが雪がひどく電車が動かず、父親がどこかまで車で迎えに来た記憶がかすかにある。似合わない喪服を着た父は元々痩せてはいたが想像よりもくたびれて老けていた。
父の実家のあたりは火葬をしてから葬儀を行う地域で、火葬場でも「パパの彼女」はずっと何をするでもなく父親の側にいた。小さく華奢で陰気な女だった。私は親戚と話したりお茶汲みをすることでその場に馴染んでいたが、母は離れたところで一人で新聞を読んでいた。そんな母が不憫だったので話しかけに行ったり、親戚からは父とその彼女が祖母の見舞いにも大して来なかったなどの文句を聞かされたりしながらいたたまれない時が過ぎるのを待った。葬儀では長男、父親、彼女の順で最前列に座り、私は母と後ろのほうに座っていた。弔問客も少ない、寂しい葬儀だった。
葬儀後の食事は元々参加しないことになっていたが天候を理由にして母と私は早く斎場を去りたかったので今度は最寄り駅まで父親送ってもらい、長々電車に揺られて帰った。
私はどうにか父親を許したくて会いに行ったつもりだったんだなと結局また捨てられた気持ちになって初めて気づいた。それ以来父親には会っていない。もう会うことはないだろう。
それからしばらくしたある日、出張先のどこかで急に思い詰めてしまい、ホテルから母親に電話をして「父親を許せない」と初めて打ち明けた。
「あんたは私を評価して父親は許せないと言うけど、あんたはパパがいたから生まれたんだし、私はあんたの父親を悪く言うつもりは全くない。地元を出た時点で両親捨てたと思え」と言われてその時は素直に「やっぱり母は強いな。敵わないな」と感心していた。しかしそこからさらに10年以上経った先日、電話で少しだけ父親への不満を伝えると「でもパパはあんたが卒業するまで養育費くれたんだよ」と母になだめられ、ようやく長年の違和感と不満を言語化できる気がした。
親なら養育費を払うなんて当たり前だし、そもそもまだ私自身が奨学金を未だに返している時点でそれは正直十分だったとは言えない額で、母親が自分で選んだ男を恨まないのは勝手だが私が実の親を恨むこともまた勝手だろうと。
インターネットの中では「許した」「受け入れた」「和解した」という記録が快く受け入れられる傾向が強いのは知っている。それに、許したほうが私自身楽になるのかもしれない。虐待されていたわけではないし、養育費を一切払わない親だっている中でそこまで根に持つことなのだろうかと自分でも思う。しかし許せないもんは許せないのだ。私はかねてより血縁よりも大事な縁はいくらでもあると思っていて、愛する他人と家族になるとこが結婚であることの反面、どうしても愛せない親族だっている。父親ではなく許せない自分を許したい。まだまだ経験もなく若くて未熟だった私がしっかりと負った傷を慰め労りたい。そう思いながらこれを書いている。何が正解かはわからない。
父についてほとんど話すことがないと冒頭で書いたが、この記事を書きながらまだ家族の形を保っていた時に父と母と三人でよく海に行っていたことを思い出した。しょっちゅう行っていたわけではないが父親の実家近くにある笹川流れはとても綺麗な海で、日本海らしく岩場が多く貝や魚が沢山いるので父にシュノーケルの使い方を習い一緒に潜っていた。母はそれを遠くのパラソルの下で見守る。父を愛すことも許すことも一生できないだろう。それでもその海の風景だけは記憶として留めておこうと思う。
お読み頂きありがとうございます。最近またポツポツとnoteを上げています。みなさまのサポートが私のモチベーションとなり、コーヒー代になり、またnoteが増えるかもしれません。